どうして日付がこんなにはっきりしているのかと言うと、荷物は奪われましたが衣類や本とノートは戻されました。日記を書いて良いと。ボスは英語で書かせろと言ったが、日本語で書かないと難しいだろうと言ってやったと言われました。すべて使い終わったら、要求すれば別のものを渡すと言われました。我々は紳士的な組織であったと伝えてほしいと最後に言ってきました。そのためのアピールに使ったのだと思います。時計などはありませんでしたが、テレビで時間もわかったし、毎日日記を書くことで日付を追っていくことができました。テレビで見た私に関する報道も逐一チェックしていました。

 7月10日、別の施設に移されました。独房で幅1.5メートルほどあり居住する場所が2メートルほど、トイレがあった。ここに移ってからテレビがなくなりました。テレビがあるということはゲスト扱いが続いていて、なくなったということはどういうことだと聞いたら、施設が大きいのでテレビの線を引っ張るのが大変だと後から言われました。

 私に食事を1日2回運んできた人物は毎回なにか欲しいものはあるか聞いてきた。テレビというと、テレビはダメだと。本をくれと言って、英語の辞書を持ってきました。それから度々、果物であるとかスイーツであるとかを持ってきました。

 7月下旬に周囲で空爆の音が響きまして、この部屋のドアの反対側のトイレの上に太いパイプが走っていますが、そのうちの1本が口を開けていて、囚人が話している声が聞こえるようにできていると。そのパイプが振動するような着弾音がありました。
食事を持ってくる人物に聞くと、彼は『怖いのか』と嬉しそうに言ってきました。『大丈夫だ。ここはジャバル・ザウイーヤだ』という小さな村だと。空爆があるのは街だ、と言って去っていきました。

 ジャバル・ザウイーヤがよく聞き取れず、再度聞き直すとまずいことを言ってしまったと気づいたのか、なにか欲しいものがあるかと聞いてこなくなりました。それ以降来なくなってしまいました。そういった反応から、ジャバル・ザウイーヤは信憑性が高いのではないかと思いました。

 そういった状態で監禁が続きましたが、10月後半あたりに私の横にいた囚人に「帰すぞ」と言っているのが聞こえました。囚人と彼らのやり取りをドアの隙間から見たら、「パキスタン人」と聞こえました。

 食事のやり取りでもアラビア語も英語もできないと。30~40代の夫婦でした。帰すと言ったが、女性の体調が悪かったようです。『じゃあ、明日だ』と言って去っていったんです。それが翌日以降も帰されず、ずっと先延ばしになっていました。ひょっとして私と一緒に帰すのではと期待しました」

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拷問による叫び声が…