「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」。志半ばで49年の人生を閉じた。

「本能寺の変以降、信長から織田家に伝わるものはほとんど途絶えました。受け継いでいるのは血統だけです。刀については、かつて自分の家にあったとかは関係なく、美しいと思います。一度刀を持たせてもらい、見方なども教えていただいたことがあります。率直に重いというのが第一印象でした。改めて刀をじっくり見ると、これは武器というより、芸術品だと思いました。私は昔、剣道をやっていたので刀剣には他の人より思いがあるのかもしれませんね」(同)

 常に信長とともにあった「義元左文字」が本能寺の変で消失した後は、松尾社の神官を経て豊臣秀吉の手に渡り、秀頼に引き継がれた。

 さらに、秀頼は慶長6(1601)年の桃の節句に招待した家康にこれを贈った。家康は替え鞘をいくつも作らせ、大坂城攻めのとき帯びて出陣したと伝えられているところに、歴史の皮肉が感じられる。

 その後、義元左文字は2代将軍秀忠に徳川将軍家の重宝として受け継がれていくことになる。

 明治2(1869)年、明治天皇から「建勲(たけいさお)」の神号を贈られた信長を祀(まつ)る建勲神社が京都の船岡山に創建されると、「義元左文字」は徳川家から同神社に寄進され、現在は建勲神社に、国の重要文化財として保管されている。

 銘に「左」の一字が彫られているため「左文字」、別名「天下取りの刀」と呼ばれる「義元左文字」は、数多くの武将の末路を見聞した。

 政治、経済、文化すべての面で日本のグランドデザインを考えた最初の武将である信長は、日本刀を天下布武と美の象徴として愛した。

 現在の刀剣ブームは、その信長の先見性がもたらした普遍的現象である。(ライター・植草信和、本誌・鮎川哲也)

週刊朝日 週刊朝日 2017年1月27日号