“ヤミの運び屋”でトレーニング? 4度五輪に出た日本選手とは (2/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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“ヤミの運び屋”でトレーニング? 4度五輪に出た日本選手とは

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元体操選手小野喬おの・たかし/1931年、秋田県生まれ。東京教育大(現・筑波大)在学中の52年、ヘルシンキ五輪で体操競技で日本初のメダルを獲得する。出場した夏季4大会すべてでメダルを獲得するなど、長きにわたって日本体操界を牽引した。現在は、日本スポーツクラブ協会の相談役としてスポーツ人口の拡大に務めている(撮影/写真部・加藤夏子)

元体操選手
小野喬
おの・たかし/1931年、秋田県生まれ。東京教育大(現・筑波大)在学中の52年、ヘルシンキ五輪で体操競技で日本初のメダルを獲得する。出場した夏季4大会すべてでメダルを獲得するなど、長きにわたって日本体操界を牽引した。現在は、日本スポーツクラブ協会の相談役としてスポーツ人口の拡大に務めている(撮影/写真部・加藤夏子)

 競技運営はヨーロッパが中心で公用語はフランス語。英語を話せる者も少ない時代ですから、役員さんもルール解釈ができてなかったんです。昭和も20年代らしい話じゃないですか(笑)。

――のちに「鬼に金棒、小野に鉄棒」と謳われた体操ニッポンのエース、小野喬さんのオリンピック・デビューはドタバタのうちに終わった。小野さんは昭和6(31)年、秋田県能代市生まれ。いまやバスケットボールで名高い能代だが、小野さんの少年期は体操の盛んな町だった。

 昭和12(37)年ですから、私が小学校に入る前かな、旧制の能代中学(現・能代高)が明治神宮大会で全国優勝しましてね。戦争が始まった16(41)年、翌17(42)年は秋田県選抜が全国準優勝。その選手たちが小学校で模範演技を披露してくれたんです。いまでいうバック転や宙返り、鉄棒でクルクル回っていて、落ちたと思ったら宙で回転して足から降りる。それが不思議っていうのか、とても魅力的でね。で、同級生5、6人と体育館にマットを引っ張り出して跳び箱を置いて、選手の真似を始めたのが体操との馴れ初めです。

 そのうち戦争が激しくなって、近くに陸軍の飛行場があったもので、私たち小学生も草刈りや防空壕みたいなものを掘るのに動員されましてね。体操どころじゃなくなった。東北の田舎だというのに、配給以外の農作物を調達しちゃいかんというから、食料難になっちゃってね。うちの親父の実家が能代からさらに3里、12キロほど離れた所の農家だったので、小学5年だった私がリュックサック背負わされて食料調達係。ヤミの運び屋ですよ(笑)。コメや腹の足しになるジャガイモなどを詰め込むんですが、冬はたいへんだった。真冬になると、夜は吹雪で道が見えなくなって、よく行き倒れにならなかったものだと思います。

 終戦間際には秋田市の石油タンクが爆撃されて、燃え上がる炎が能代からも見えました。そんな爆撃の炎が見えるか見えないかが、昭和と平成のはっきりとした違いです。あんな時代は二度と来ちゃいけないと思いますね。

 まあ、お上が始めた戦争ですから、お上に言われた通りに生活するしかない(笑)。お上に捕まるんじゃないかと怖々ヤミをやってたんだけど、あの往復6里の道のりが私の基礎体力を作ったんですよ、きっと(笑)。そう考えなくちゃ。

週刊朝日 2015年12月18日号より抜粋


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