元体操選手小野喬おの・たかし/1931年、秋田県生まれ。東京教育大(現・筑波大)在学中の52年、ヘルシンキ五輪で体操競技で日本初のメダルを獲得する。出場した夏季4大会すべてでメダルを獲得するなど、長きにわたって日本体操界を牽引した。現在は、日本スポーツクラブ協会の相談役としてスポーツ人口の拡大に務めている(撮影/写真部・加藤夏子)
元体操選手
小野喬
おの・たかし/1931年、秋田県生まれ。東京教育大(現・筑波大)在学中の52年、ヘルシンキ五輪で体操競技で日本初のメダルを獲得する。出場した夏季4大会すべてでメダルを獲得するなど、長きにわたって日本体操界を牽引した。現在は、日本スポーツクラブ協会の相談役としてスポーツ人口の拡大に務めている(撮影/写真部・加藤夏子)

 昭和27(1952)年のヘルシンキ・オリンピックからメルボルン、ローマ、そして、東京五輪で日本選手団の主将、開会式では選手宣誓も務めた。「小野に鉄棒」と謳われ、大ケガにも負けず演技を続けた小野喬(おの・たかし)さん(84)。その強さの裏には戦争があった。

 最初のオリンピックとなったヘルシンキ五輪出場は、東京教育大(現・筑波大)3年の時です。出場選手選考の最終予選で5位になり「これで団体総合のチーム5人に入り、オリンピックに行ける」と思ったんですが、オリンピック委員会では個人3人の派遣でいいんじゃないかという意見だったらしい。当時はなにしろ外貨が乏しい時代で、日本選手団の数はずいぶんと制約されていたんです。それが、なんとか団体総合にエントリー可能な5人を派遣するということになり出場できたんです。

 私は飛行機に乗るのが初めてで、憧れだったフライトを楽しんでいたんですが、急に頭が痛くなってね。いまはジェット機ですが、当時はプロペラ機でしたから、沖縄に降りて台北に降りてと、給油のためにちょこちょこと離着陸するんです。中東の上空あたりで、ついに動けなくなっちゃった。スウェーデンのストックホルムでとうとう救急車で病院に運ばれましてね。診察を受けたら急性蓄膿症だったんです。飛行機で何回も昇降したんで、気圧の変化に体が追いつかなかったんでしょう。

 手術をすれば大会に出られなくなるから、とりあえず応急処置だと鼻に針を刺して膿を出したら、鼻がものすごく腫れちゃって。3、4日遅れてフィンランドに入ったんですが、その間に「小野がだめだったら監督を出して、真似事の着地でもしてもらおう」って話になってたんだって(笑)。

 結局、私は鼻に綿を詰めて練習し試合に出たんですが、団体総合は史上最高の5位、個人総合でもチーム一の12位だった。種目別の跳馬では竹本正男さんが銀メダルで、上迫忠夫さんと私が銅メダル。その表彰式がまた、間抜けでしてね。私もコーチも得点が同点の場合は、規定演技の得点の高い方が上位だと解釈していたんです。上迫さんと同点だったんですが、上迫さんの規定の得点の方が良かったんで、私は4位だと思っていた。で、会場の2階席で記録のための8ミリカメラを回してた。だけど、なかなか表彰式が始まらない。ふっと国旗掲揚のポールを見たら日の丸が二つついている。あれっ、私も3位なんだと。「オイッ!」とも「ホイッ!」とも声を掛けられない。なにしろ“秋田”の人間だしね(笑)。そのうち表彰式が始まっちゃった(笑)。

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