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「話題の新刊」に関する記事一覧

無戸籍の日本人
無戸籍の日本人 「戸籍がない」人生、イメージできるだろうか。本書は何らかの事情で出生届が役所に提出されず生きることを余儀なくされた人々のルポだ。  著者はかつて、再婚後の出産が民法の規定に引っかかり「無戸籍児」の母となった経験から支援活動を始めた。住民票が作れない、健康保険証が持てない、銀行口座を作れない──当事者が被る不利益は枚挙に暇がないが、公表がしづらいなどの事情もあり、問題は長らく社会的に放置されてきた。学校に通えず「365日変わらない風景」を見ていたと語る27歳の男性、妊娠したが母子手帳がもらえないと訴える32歳の女性……著者のもとを訪れる相談者たちは、社会の圧倒的多数派からは見えない風景を語る。「就籍」を求めるためには自身が「日本人」だと証明せねばならず、面談、指紋採取など、時に犯罪者のような扱いを受ける。「この国では、無戸籍者に『人権』はないに等しい」と著者は言い放つ。丁寧な筆致に引き込まれる。法律が絡む難しいテーマだが、まずは当事者の人生に関心を持つことから始めたい。
ときには積ん読の日々
ときには積ん読の日々 著者は児童書の翻訳家で、50歳から弾き語りを始めたギタリストでもある。  創刊当時の「ブルータス」や「ミュージック・マガジン」、あるいはレイ・ブラッドベリの作品群など、さまざまな雑誌や書籍について、愛情豊かに紹介するエッセイ集だ。  音楽にも造詣が深く、ビートルズ、ボブ・ディラン、ジェームス・テイラー、高田渡、岡林信康、安田南、はっぴいえんどなどが、翻訳者らしい瑞々しい言語感覚で評せられる。  常盤新平、片岡義男、画家の岡本信治郎など、著者が実際に会った著名人の話には、彼らの等身大の一面が記されていて、興味深い。  なかでも著者の親戚で“伝説のギタリスト”として語り継がれる伊勢昌之が、新しいコードをみつけるたび、真夜中でも電話をかけてきて著者に弾いて聴かせた話など、二人の師弟関係に感じられる優しい温かさは、彼らが愛して止まないボサノバにも似て、全体のふんわりとした読み心地を象徴している。少年の心を持つ“アラフィフ”にお薦めの一冊。
イギリス風殺人事件の愉しみ方
イギリス風殺人事件の愉しみ方 産業革命は都市の姿を劇的に変えた。地域の連帯は弱まり、隣人が未知の存在になった19世紀初頭のイギリスでは戦争や飢饉と並び、殺人が大衆の脅威として浮かび上がる。それは、人々が文学や演劇、美術を通じて、殺人を娯楽として消費する時代の幕開けでもあった。  現実の殺人事件と文学などの関係性を時系列に追うが、現実がフィクションになるだけでなく、時にはフィクションが現実になる。  ロンドンを震撼させた「切り裂きジャック」。民衆が描く犯人像は小説『ジキル博士とハイド』の影響が色濃い。容疑者として、事件と同時期に上演されていた演劇の主演俳優や小説家、画家、国王の長男までもが浮上した。小説の影響で誰もが犯人を「昼間は豊かな社会の一員で、夜間になるとホワイトチャペルの薄汚い通りを徘徊する外部者」と推測したのだ。  殺人事件を「愉しむ」タイトルには違和感がある。だが、大衆が殺人事件に罪深い快感を覚えたからこそ、司法や教育の進展があった事実も本書は教えてくれる。
へろへろ 雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々
へろへろ 雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々 「僕たちは、〈老人ホームに入らないで済むための老人ホーム〉を作ります」。本書はこんな宣言を掲げた風変わりな福岡市内の老人介護施設「宅老所よりあい」の創立記だ。  著者は元雑誌編集者。仕事がなく、時間を持てあましていた著者が、知人の紹介で、「よりあい」のスタッフと知り合い、彼らの活動に巻き込まれていく。そして彼らを紹介する雑誌「ヨレヨレ」を一人で創刊した。 「よりあい」は、ゴミに埋もれていた認知症のお年寄りを救おうとするところから始まった。古民家風の施設のデッキにカフェを併設して「管理」でなく「居心地」を尊重し、近所の人がふらっと入りたくなるスペースにしている。配膳は三食手作りで、食器もプラスチック類は避け、キッチンの什器も充実している。  しかし、心意気はあれどもお金はない。必死でお金を集めて特別養護老人ホームの建設を知恵と汗と笑いで乗り切っていく後半は、「ホントに実話? 小説じゃないの」というくらい感動的だ。
エスケープ 2014年全日本選手権ロードレース
エスケープ 2014年全日本選手権ロードレース 自転車レース「全日本選手権ロードレース2014」で繰り広げられた人間ドラマにスポットをあてたノンフィクション。  まずタイトル「エスケープ」。レース本でなぜ、「ウイン(勝利)」ではなく、「逃げる」のか。読み進めるうち、勝つためにそこに込められた戦略、レース展開、それぞれの選手たちの役割と葛藤、その意味が次第に解きほぐされていく。  自転車関係の本をいくつか手掛けた著者が本作でスポットをあてた選手への思い入れが、レース展開とともにダイレクトに伝わってくる。  総距離252.8キロ。一周15.8キロのコースを16周するレース。本書には数ページごとに「残り○km」という表示が記されている。その数字が読み進むうちカウントダウンされ、ヒリヒリした緊迫感にいつの間にか包まれていることに気づく。  ゴールが近づく。残り距離の単位が「km」から「m」に変わる。ロードレースの展開さながら、スピード感と高揚感を感じ、ページをめくる。そしてゴールへ。「逃げろ!」、自然とそう念じていた。
BE KOBE 震災から20年、できたこと、できなかったこと
BE KOBE 震災から20年、できたこと、できなかったこと 1月17日で22年目を数えた阪神・淡路大震災。本書は震災を機に、現在も様々な形で神戸に関わり続ける10組13人へのインタビュー集だ。  震災は時に「地域復興」「住民同士の助け合い」といった言葉で美化される。しかし本書が着目するのはむしろ、そうしたイメージから削ぎ落とされる現実だ。地元フリーペーパー発行人・慈憲一は、震災を機に東京から神戸に戻った。地元の役に立ちたいと復興委員会に加わるも「市の回し者」などと誹謗を受け疲弊する。義務感の伴う「まちづくり」ではなく「普通の町」を楽しむ視点に転換しようと、ユニークな企画を連発している。  元新聞記者の小説家・真山仁は、神戸市内の自宅で被災した。当時、救助活動への影響を懸念し取材は控えたが葛藤は残ったと明かす。現在は東日本大震災を題材に、震災報道やボランティアのあり方に斬り込む作品を発表する。「被災地にある、あらゆる“タブー”を潰してやろうと思った」との言葉に書き手としての矜持が滲む。震災後の現実にとことん肉薄した一冊だ。

この人と一緒に考える

こころ動かす経済学
こころ動かす経済学 数式を駆使した高度な経済学が、実生活からかけ離れたものと思われるのは、その独特の人間観によるところが大きい。人間は自分の利益を最大化させるために行動するとされ、心の機微は捨象されてきたからだ。これらの既成観念を打ち破ろうとするのが本書だ。  日本経済新聞朝刊の「経済教室面」に連載されたシリーズをまとめたもので、13人の研究者が「こころ」という切り口で、競争、倫理観・価値観、男女の行動の違い、差別と偏見、希望の役割、幸福などを取り上げている。たとえばワークライフバランス。所得税率が上がると、労働者は所得を増やすメリットが減り、残業を少なくして家族と過ごす時間を伸ばそうとする。こうして税率によって人々や政府の価値観が変わる。逆もありうるというのだ。  おもてなし、やる気、メンタルヘルス……。 心の問題とみられたものを新たな視点で解明していく学問の威力に驚かされる。本書は、経済学が社会全体の富を増やし、適切に分配し、誰もが幸福になるための学問であることがわかる一冊だ。
「ほら、あれだよ、あれ」がなくなる本
「ほら、あれだよ、あれ」がなくなる本 若いころは、親がど忘れして、「ほら、あれだ、あれ」などといっているのを笑っていた。それから30年後、こちらがど忘れの連続である。同世代の友人とおしゃべりしていると「ほら、あれ、えーと」の応酬。トシをとるって、こういうことだったんだ。  茂木健一郎と羽生善治の『「ほら、あれだよ、あれ」がなくなる本』はタイトルがうまい! 副題は「物忘れしない脳の作り方」。書店で見つけてすぐ買った。  内容は脳のアンチエイジングをテーマにした講演記録。第1部は茂木が脳科学者として、第2部は羽生が棋士として、脳や記憶力について語り、第3部で対談する。ウケを狙った茂木のジョークはスベり気味で、それがなければページ数は半分ぐらいで済んだんじゃないかと思うが、初老のぼくにはいろいろ得るところがある。  茂木によると、物忘れは脳の老化によるもの。脳は楽をするとトシをとるのだとか。たとえばど忘れしたとき、ついスマホで検索してしまうが、自力で思い出すようにしたほうがいい。「うーん、なんだっけ」と頑張るのが老化予防。  脳の大好物はドーパミンで、これが出ると脳の回路は元気に保たれる。ドーパミンは初めてのことやびっくりすることを経験したときによく出る。言い換えると、感動や好奇心。  新しいことへの挑戦はドーパミンを出すが、ひとつ条件があると茂木はいう。それは「安全基地」があること。失敗してもひどいことにならないという安全網のようなもの。信頼できる家族だったり友人だったり。  プロ棋士は対局で指した手をたとえ100手でも憶えているが、羽生によると「誰にでもできるとても簡単なこと」。将棋には連続性と法則性があり、そのパターンをつかめばいいのだそうだ。羽生は歌にたとえる。でもその羽生ですら、「たくさんのことを正確に覚えるのが、前よりも難しくなりました」というのだけど。
本当はエロかった昔の日本
本当はエロかった昔の日本 『枕草子』や『徒然草』を学生時代に教科書でかじり、古典嫌いになった人でも興味が湧く一冊。古典から透けて見えるのは高尚さでも昔の人の気品の高さでもなく、日本人のエロに対するおおらかさであるというのが本書の趣旨だ。 『大和物語』や『うつほ物語』をひもとけば、世話女房よりも育児を放棄した、貞節が緩い母が理想として描かれている。日本社会は古来、母から娘へ財産が継承される母系社会で、女性は「より良い男」を惹きつけることが重視されたからだ。「エロい女がエラい」のであり、その究極である貴族の性愛サロンを描いた『源氏物語』は愛欲にまみれ、不倫が日常茶飯事の世界になる。  性愛を重視する日本人像を映し出す一方、エロの弾圧も指摘する。西洋化に突き進んだ明治期や戦時下は古典もエロの規制を免れなかった。現在もエロを取り巻く環境は厳しく、東京五輪を見据えた浄化運動も始まる。古典も対岸の火事でないのだが、「美しい日本」を世界に訴えたいならば、伝統文芸に脈々と伝わるエロのパワーを見直すのも一考では。
小泉今日子書評集
小泉今日子書評集 女優の小泉今日子が、読売新聞の読書委員として、この10年間に紙面に掲載した97冊の書評が集められている。詩集から小説、エッセイ、猫の図鑑まで。それぞれの書評には、出版時に加えられたメモ風の感想が添えられていて、これを読むのも楽しい。この10年間を振り返る巻末のインタビューでは、「私の恩師」である演出家の故・久世光彦の仲介で委員を引き受けた顛末が明かされている。  喜びや悲しみ、悩み、将来への期待と不安……。本の内容に寄り添いながらも、そんな思いをつづることで、作品そのものの魅力を際立たせている。どこに行ってきた、何を食べたという日記のようなエッセイがあふれる中、この本は彼女自身の10年間の感情を記録した優れたエッセイ集ともなっている。 「読み返すとその時々の悩みや不安や関心を露呈してしまっているようで少し恥ずかしい。でも、生きることは恥ずかしいことなのだ。私は今日も元気に生きている」(「はじめに」より)。彼女の素敵な笑顔同様、この書評集は生命力に満ちている。
圏外編集者
圏外編集者 無名の観光スポット、着道楽の若者の部屋──隣にあるが見えていない光景を切り取った風俗写真で知られる編集者による、仕事の回顧録。約40年、本を作り続ける著者だが、一貫するのが自ら「現場に足を運ぶ」ことへのこだわりだ。過去、現代詩の連載を受け持った際には認知症老人のつぶやき、死刑囚の俳句など「詩壇の外側」の人々の声を好んで取り上げた。その際、たとえ相手が介護施設の中で、会話ができなくとも、「とりあえず会ってみる」ことを大切にしたと話す。他にもインテリアデザイン、音楽など手がけてきたジャンルはどれも「部外者」だったとの姿勢は崩さない。手間がかかっても働き続けたのは、その道の研究者が動かなかったため、すなわち「専門家の怠慢」との一言が痛切だ。  60歳になった現在は、メールマガジンの発行を精力的にこなす。取材が好きで編集者になった限りは「いつも現場に出ていられるように、自分でメディアを作った」。手間を省いたまとめ記事がネット上で量産される現在の状況に、強烈なパンチを食らわせる一冊。
奇界紀行
奇界紀行 〈国境ではなく、理解という名のボーダーを越えたその先にある世界〉  著者はそれを、「奇界」とよぶ。  動物の死骸が並ぶ西アフリカの呪術師の霊感商法、因果応報や性病の恐ろしさを伝えるおぞましい像が並ぶタイの寺院、アメリカの砂漠にあるサイケデリックな神の山、チェルノブイリの廃墟、アルゼンチンのUFO村、サイババ……いわゆる「珍スポット」とはまたテイストの違う、もっとドロリとしたダークな磁場のようなものをもつ、世界の「奇界」を、写真家の著者が切り取ったフォトエッセイ。漫画家・諸星大二郎らと訪れた、パプアニューギニアでの精霊の洞窟とマッドメンの世界の章での、写真と文章がかもし出す「異世界」の緊迫した空気の切り取り方は、圧巻である。  ネットをポチポチすれば、いつでもその場から世界の様々な情報が手に入れられる今でも、スマホやPCでは分からない世界の広さ、ディープさを実感する。そんな、広くて深い地平まで連れていってくれる、奇界専用のどこでもドアのような一冊。

特集special feature

    中国残留孤児 70年の孤独
    中国残留孤児 70年の孤独 2012年4月に関越自動車道で起きた夜行バスの死亡事故の運転手は、中国残留孤児の息子だった。著者は、事故に関するインタビュー記事を契機にひとりの残留孤児に心惹かれる。池田澄江。中国の徐明から数えて、四つ目の名前で本名にたどりついた。  澄江らは08年、東京に「中国残留孤児の家」を設立した。今は台東区にあり、「孤児」と便宜的に使うが、澄江は「『中国残留孤児』は、あの戦争から生まれた屈辱の名前です」と言う。著者は、この家に集う中国帰国者や2世たちと並走する。餃子作りの場に顔を出し、広島の帰国者との交流や原爆ドーム見学へ同行し、この家が集めた募金で完成した中国・四川省の村の小学校を訪れる。  そんな中で、人なつこく著者に接する帰国者たちの実相が浮かび上がる。2世もいじめられたこと、年長の帰国者の大多数は女性であること、残留婦人に光が当たっていないこと、身元不明者が多いこと……。彼らの演劇に出てくるセリフ「孤児はあなたたちの中に、あなたたちの傍にいる」が胸を衝く。
    羊と鋼の森
    羊と鋼の森 2004年のデビュー以来、着実に良質な世界を生み出し続けている宮下奈都の新作は、若い調律師が主人公の長編小説だ。  高校生の外村は、些細なきっかけで、体育館にあるピアノを調律にきた板鳥宗一郎と出会う。彼の神聖ともいえる調律の仕事に魅せられ、外村は調律師の道を歩む決意をする。専門学校を卒業後、板鳥が勤める楽器店に就職し、調律師としての新人時代が始まる。  外村はよく悩み、考える。仕事について、ピアノについて、良い音とは? それを見守る板鳥をはじめ、先輩たちの眼差しが時に厳しく、時に優しい。やがて外村は才能を超えた、大切で確かな資質を自覚し調律師として成長していく。  ここ数年、これほど洗練された文体、ひたむきな想いを感じた小説はない。人は時として、多忙を言い訳に心を失くす。そんな時、この本を取り出し、噛みしめるように、1行ずつゆっくりと読んでいきたい。そして忘れていた言葉や気持ちを確かめたい。そんなことを思わせる小説である。
    前略、殺人者たち 週刊誌事件記者の取材ノート
    前略、殺人者たち 週刊誌事件記者の取材ノート 耳目を集める事件が起きると、インターネットの普及で事件の断片が物凄い速度で伝わるようになった一方、風化するのも早くなった。本書では11の凶悪殺人事件を扱っている。元週刊誌記者の著者は事件後も加害者や関係者を追い続け、犯人の実像や親族の苦悩に迫る。  強烈な印象を残すのは、犯人の宅間守の父親に焦点をあてた大阪教育大附属池田小事件。報道陣の前では「同じことを何度も言わせんな」などと虚勢を張りながらも、心を許した著者には「あいつは異常やった」と苦悩を漏らす。事件を防げなかった悔恨と、殺人犯の親として生きる覚悟が透けて見える。  戦後最大の冤罪事件とも言われる帝銀事件では支援活動に一生をささげた男の生涯を描く。獄死した平沢貞通の汚名を晴らすために養子になり、職にも就かず、奔走するが、再審請求が進まず精神を病む。  当事者にとって事件に終わりはない。彼らの体温を感じることで凶悪事件が遠いどこかで起きているのではなく、我々と同じ地平の出来事であることを改めて認識させられる。
    頂上至極
    頂上至極 江戸中期の1753年、水害が多発していた木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)流域の河川工事「宝暦治水」を命じられた薩摩藩。責任者の家老、平田靱負を中心とした薩摩藩士らが難工事に駆り出される。鹿児島からは遠いが、因縁深い「関ケ原」にはほど近い。流域の支配権は複雑に分かれ、領民たちも一筋縄ではゆかない。総工費は40万両にのぼり、平田はまず資金集めのために大坂商人に頭を下げて回る。さらには「水を掻かねば、みな海に沈む」土地に入り、したたかな郡代や交代寄合(旗本)、領民たちをなだめ、ときには威嚇する。1年半で藩士約千人のうち三十数人が病死、約50人が次々に切腹した。  日本史に異彩を放ち続けた薩摩藩でもとくに語り継がれた事件で、工事はようやく完成する。領民たちには深く感謝されるものの、平田は静かに運命の決断を選ぶ。「こんな大きな体験ですから、その精神は幕末維新の薩摩の侍たちに引き継がれたと思うんです」と著者はいう。その忠誠心の有り様は宗教性さえ帯び、薩摩のプライドの凄みを伝えている。
    物欲なき世界
    物欲なき世界 出版、ウェブなど多方面の編集業に携わる著者が「消費」をめぐる社会の変化を考察した書。主張は明快。近年の社会では人々の物欲が減退し、「モノ」に代わってより目に見えづらい価値観が求められる傾向にある。例えばファッション業界では最近、カフェを併設し食品や雑貨を店内で購入できる店舗が増加しているが、これは服という具体的商品から「ライフスタイル」という抽象的価値観に消費の軸が移行している表れだという。市場を中心とした資本主義は「中心」たる先進国が「周辺」たる発展途上国を開拓し、前者が利潤を得る仕組みのもと発展を遂げた。しかしグローバリゼーションによって「国境」が再定義される現在は、そのシステムも限界を迎えつつある。  今後の社会は、発展に代わって質的な豊かさを求める「定常型社会」に移行するであろうと著者は指摘する。一般に何かを「しない」ことはネガティブな状態と見なされやすい。しかし、本書は「消費しない」状態を単に「購買意欲の減退」で終わらせず、明るい認識へと転換させる視点を与えてくれる。
    池澤夏樹=個人編集 日本文学全集24 石牟礼道子
    池澤夏樹=個人編集 日本文学全集24 石牟礼道子 工場排水の水銀毒に傷つき病んだ故郷水俣の怨を、40年に亘り書き継いだ石牟礼氏の大著『苦海浄土』が生まれるべくして生まれたことをあぶりだすのが本巻である。『苦海~』に伴走する形で書かれた作品群から6作(幼児期回顧「椿の海の記」、能「不知火」など)を収める。 「椿の海の記」(1976年)を白眉、と思う。ここで著者は4歳の少女に戻る。昭和初期の故郷・水俣の日々。海山川、草木、小動物、岩や石にも神が宿る、と自然への畏敬と感謝を教える大人がいて無垢な童女は異界と自在に交信する術を学ぶ。雪の夜道を徘徊する祖母の姿に感じた謡曲の老女さながらの荘厳の美。娼家に売られた娘たちや、共同体が遠巻きにした人々に抱いた不思議に近しい思い。魚を商う浜の漁師の女房たちの快活な売り声を氏は、稗田阿礼を思わせる記憶力で呼びさます。  氏は、日本文学の本家跡取りだった。その資質と語り部の文体を以て、この国の近代の負の歴史を文学として昇華させたことを選者は、既刊世界文学全集lllに収録の『苦海~』と本巻を対置する試みでより鮮やかにした。

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