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「今週の名言奇言」に関する記事一覧

春の庭
春の庭 写真に写っていた場所に行ってみたいと思ったことってないですか。でもそれが、他人が暮らす家だったら……。今期芥川賞受賞作、柴崎友香『春の庭』は、そんな設定ではじまる街と家の物語である。  主人公の太郎は、ある日、同じアパートの上階に住む女性に声をかけられて面食らう。<できたらこちらのベランダの柵に、上らせていただけないかなと、考えているんですね。(略)決して強盗の下見とか盗撮とか、そういったことではございませんので。ただちょっと、あのー、あの家が好きなだけなんです> 『春の庭』とは(架空の)写真集のタイトル。それは20年以上前に出た本で、CMディレクターの「牛島タロー」と小劇団の女優「馬村かいこ」の共著。牛島&馬村夫妻の日常生活を撮ったものだった。2人はその後離婚するが、この写真集の家が見たいという理由で隣のアパートに引っ越してきた女性がいた。それが太郎のアパートの2階に住む西だった。彼女はなんと、賃貸物件として一時ネット上に出ていた隣家の間取り図まで持っているのだ。  これがエンタメ系の小説なら、不穏な事件に発展しそうなところだが、そういう展開はありません。ありませんけど、西はとうとう隣家に住む「森尾さん」一家と親しくなり、家に遊びに行くまでになる。 <よかったじゃないですか。念願叶って>と応じる太郎に西はいった。<でもお風呂場にはなかなか入れないんですよねー。広い洗面室の奥にあるから、廊下から覗けないし>  ひとんちの風呂場が見たい。しょーもない願望といえばいえる。だが西はかなり本気で、2人は写真集に写っていた森尾家のお風呂場に入るために一計を案じるのだ。  これまで街のたたずまいを丁寧に描いてきた柴崎友香。が、街のみならず、柴崎作品の人物はみな少しずつおかしなこだわりを持っていた。『春の庭』もそう。悪意のない隣人同士の交流。でも森尾さん側から見たら相当こわいよ、西って人は。
男一代之改革
男一代之改革 青木淳悟は前衛的な作風で知られる現代文学作家のひとりである。その青木淳悟が、えっ、じじじ時代小説? 『男一代之改革』は江戸期を舞台にした異色の中編小説だ。  主人公はあの八代将軍・徳川吉宗の孫にして、「寛政の改革」を断行した松平定信。白河藩(現在は福島県)の藩主から、田沼意次が失脚した後の江戸に上り、老中の任についたのが天明7(1787)年。定信30歳のときだった。政権交代をはたし改革に当たったはよかったが、あまりの質素倹約の奨励に人々がヘキエキし「白河の清きに魚の住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」という狂歌にされたのは有名な話。  その定信には、じつはもうひとつの顔があった。源氏物語をこよなく愛する教養人、風流人としての顔である。源氏の「夕顔巻」に心を奪われ、16歳にして「心あてに見し夕顔の花ちりて、尋ねぞ迷ふたそがれの宿」ってな歌まで詠んだほど。物語全巻を自ら7度も筆写したほど、彼は「源氏」に私淑していた。  というわけで小説は、定信の人生と光源氏の女性遍歴、徳川期と平安朝を行きつ戻りつしながら進行する。  京の大火に際し、為政者として自ら京に赴くも、なんたってそこは憧れの地。<日本の伝統文化への興味は尽きず、あたかも千年の過去に旅しているかのようであった>。  エンタメ系の時代小説のような派手な展開はないものの、史実を知った上で読むと、随所でじわりとしたおかしさが込み上げる。  6年で老中職を退いた定信は『花月草紙』なる随筆を残した。そこで定信は本居宣長の源氏解釈に「何がもののあはれじゃ」とケンカを売っている。<『源氏』は無理でも『枕草子』をヤリタカッタ>定信。やがて文化文政時代に入り「寛政の改革」は水泡に帰すも、楽翁を名乗る定信は文化人サロンの主としての趣味三昧。「男一代」の「改革」とは何だったのか!? 武より文、公より私、権力より趣味。いずれの御時にもいえる歴史の真実かも。
殺人出産
殺人出産 <昔の人々は恋愛をして結婚をしてセックスをして子供を産んでいたという。けれど時代の変化に伴って、子供は人工授精をして産むものになり、セックスは愛情表現と快楽だけのための行為になった>  村田沙耶香『殺人出産』はそんな「100年後の世界」を舞台にした衝撃的な中編小説だ。衝撃的なのはしかし、セックスと出産が分離されていることではない。この世界では<10人産んだら一人殺してもいい>という「殺人出産システム」が導入されているのである! 「産み人」に立候補した人(人工子宮が開発されているため男性でも可)は10人の子どもを産む。そのかわり10人産み終えたら、誰か1人、殺したい人を合法的に殺す権利が与えられる。殺人の対象に選ばれた「死に人」は、皆のために犠牲になった人として尊敬される。  殺人出産制度の導入後、人々は<恋愛とセックスの先に妊娠がなくなった世界で、私たちには何か強烈な「命へのきっかけ」が必要で、「殺意」こそが、その衝動になりうるのだ>という残酷な理屈を当然のこととして受け入れている。  語り手の「私」には、17歳で「産み人」になり、もうじき10人目を出産する姉がいるが、そのことを周囲に隠している。姉は幼い頃から強烈な「殺人衝動」の持ち主で、<“殺人”を夢想することが唯一、姉の精神を守るライナスの毛布なのだった>。自傷行為をやめさせたくて「私」が虫を渡すと、<姉はゆっくりと指で押しつぶして、それらを殺した。殺すと発作は収まった>。  最近報道された高校1年生の事件を彷彿させるような描写!  ただ、いかんせんこれほど重いテーマを、わずか100ページあまりでやっつけるのは無理がある。ここまでだとやっと1人産んだ程度の内容だ。物語の最後で「私」自身も「産み人」になることを決意している。ここから先は長編小説にするべきだろう。世間を震撼させる問題作になることまちがいなしだ。
アップルソング
アップルソング えっ、これは評伝なの? 誰か特定のモデルがいるの? そんな錯覚を起こしそうになるのが小手鞠るい『アップルソング』。女性報道写真家の一生を描いた長編小説だ。  主人公の鳥飼茉莉江は先の戦争のさなかに生まれ、1945年6月の岡山空襲のガレキの中から助け出され、10歳のとき、母とともに氷川丸でシアトルに渡った。だが母は自殺。16歳でハイスクールを中退し、単身ニューヨークに出た彼女は、ウェートレスやホテルの客室清掃のバイトをしつつ、やがてカメラに出会って波瀾万丈の人生を歩むのだ。  一方、資料を集め、ゆかりの人々を訪ね歩き、その茉莉江の足跡を追っているのが語り手の「私」こと美和子。1976年生まれの美和子が茉莉江と出会ったのは2001年9月11日のニューヨークだった。が、それはほんの一瞬の出来事で……。  戦後史をこれほど真正面から描いた小説って、ちょっと最近なかった気がするな。なにせ新宿駅西口の反戦フォーク集会(69年)は出てくるわ、連合赤軍によるあさま山荘事件(72年)は出てくるわ、丸の内の三菱重工業爆破事件(74年)は出てくるわ。御巣鷹山の日航機墜落事故(85年)も、ベルリンの壁崩壊(89年)も。単なる背景としてではない。それらの現場すべてに主人公がいたって設定なんだから!  報道写真家という職業の女性を主人公に選んだことで可能になった描き方。茉莉江は考える。<私は知ってしまった。この世界は、美しくないもので満たされている。この世界は、美しくない。醜い。むごい。残酷で冷酷だ。非情で非業だ。私は、この醜い世界を撮りたい>  ホンモノの報道写真家が読んだら「そんなヒロイックな仕事じゃないっすよ」というかもしれない。だけど、美しい国とやらを標榜する首相があやしげな論理を振り回している今日、みんな、こういうのを読んで戦後の歴史を少し勉強するといいのよ。ドキドキの恋愛小説の部分もあり。映画化熱烈希望です。
太陽がもったいない
太陽がもったいない 園芸エッセイの名著といえば、カレル・チャペック『園芸家12カ月』。いとうせいこう『ボタニカル・ライフ』もおもしろかったな。  園芸家のエッセイの何がおもしろいかというと、それは四季があることだ。われわれが感じる四季などはしょせん雪が降ったとか、桜が咲いたとか、暑くてたまらんとか、その程度である。園芸家はちがう。園芸家は四季に対して能動的なのだ。  山崎ナオコーラ『太陽がもったいない』は、26歳の若さでデビューし、今年デビュー10周年を迎える気鋭の作家の園芸エッセイである。 <今年も種蒔きの季節がやってきた。期待で指が震えてくる>と著者は書くのだ。マンションの11階に住み、食べられる植物のエリアを「ナオファーム」と、花のあるエリアを「ナオガーデン」と名づけ、ベランダのテーブルで朝食を食べ、種を蒔けば<芽が出るのを「まだか、まだか」と待>ちこがれ、でもたまらずに土を掘り返してみたりする。  夏は緑のカーテンに挑戦し、秋はベランダに生えたきのこに驚き、そんなこんなの間に、彼女はしっかり結婚なんかもしちゃっている。 <多くの人がそうだと思うのだが、ベランダ菜園といえば、まずはバジルだ>といわれても「そうなんだ」としかいえず、<最初に買った植物は、ドラゴンフルーツだった>のが普通なのか変わっているのかもわからない。そんな人は読まんでいいとナオコーラさんはいうかもしれないが、まぁいいじゃないの。私がいちばん気に入ったのはここ。<「ゴミ」は、好きな言葉だ。私はよく、「あんなものはゴミだ」「自分はゴミだ」「全部ゴミだ」といった発言をする。わくわくするからだ>  野菜クズというゴミからも芽が出るという話のフリである。<大事そうな言葉のあとにゴミと付けるだけで台無しにできる、あの感じがなんとも言えない>。若い作家の私生活と文学観もちょっぴりのぞき見できるお得な本。チャペックも草葉の陰で親指を立てているだろう。
デラックスじゃない
デラックスじゃない <テレビに出るのは、ある意味、魂を売ること><要するに、電波芸者なの。(略)別名、マスメディアの犬ね>。マツコ・デラックスはかつて知る人ぞ知る活字の世界の住人だった。それがいまではすっかりテレビの人気者。『デラックスじゃない』は活字からテレビに軸足を移したマツコが自分を語り、世間を語り、メディアを語った一冊である。 <アタシ、物心がついたときから「自虐」で生きてきたの>と豪語するだけあって、彼女の自虐には気合が入っている。しかもサービス精神満点。読者が質問しにくい疑問にもちゃんと答えてくれている。  えーっと、マツコさんの女装はいつからはじまったんでしょうか。  はじめて口紅を塗ったのは小学校3年生頃だったわね。高学年の頃には自分が好きなのは男性だと気づいていたわよ。<でも、「性別としての女性」になりたいと思ったことは一度もないの。(略)男の身体でいることは苦痛ではないし、何も不自由は感じない。頭の中も女じゃない。だけど、「女装」はしたいの>  あの~、そのお身体で、不自由なことはなかったですか?  身長178センチ、体重もスリーサイズも140のアタシ。大変だったことは、そりゃあるわよ。バスタブにハマって出られなくなったこともあるし、劇場の椅子にも飛行機のビジネスクラスの椅子にも入らないのよ。<何度、「体重を絞りたい」と思ったことかしら。これまで何度も「何とか手を打たなくては」とダイエットを試みたんだけど、結局、すべてリバウンドしたわ>  メディアに露出しはじめた頃はおもしろい話を必死でつくっていたというマツコさん。でも<「自分じゃない自分」で勝負をしてしまったことについて、傷が消えないのよ><みんな、最初は盛るのよね>  私生活を「盛らずに」語った結果、見えてくるのは、私生活はズボラだが人間的には真っ当なモラリスト・マツコの顔である。若い人に読ませたい。中学高校の図書館にぜひ。

この人と一緒に考える

地球経済のまわり方
地球経済のまわり方 経済の入門書をうたった本は数あれど、どれもわかりにくいんだよな、な方にオススメなのが浜矩子『地球経済のまわり方』である。  そもそも経済活動とは三角形で表されるものである。<三角形の三辺を構成しているのが、成長と競争と分配という三つの要素である。成長をいいかえれば雇用創造、競争をいいかえれば強者生存、分配をいいかえれば弱者救済だ>。ほらね、わかりやすいっしょ。ついでに<競争なき分配経済が純粋社会主義経済>で、<分配なき競争社会が純粋資本主義経済である>とさらっとカマし、経済活動のサイクルはスティーブン・キング『狼男の一周期』(邦題は『人狼の四季』)を、金融はシェイクスピア『ベニスの商人』を例にとって解説する。<余っているところから足りないところに資金を回す。それが金融機能というものだ。そのための報酬が金利である>。  中高生を読者対象に想定したちくまプリマー新書の一冊。が、著者は読者を子ども扱いしていない。1990年代の「失われた10年」は<経済活動はすっかり縮み上がり、形を判定するどころか、そもそも三角形そのものがみえないほどに貧弱なものになってしまった>状態だった。こういう時期には競争の強化が必要だが、悲しいかな、始動のタイミングが遅すぎた上、動きはじめた後の勢いが激しすぎた。<これほど情けなくて恐ろしいことは無い>。  アベノミクスもピシャリと一喝。<そこにあるのは見違いではなくて、意図的な偽装工作であるかもしれ>ず、<相当にタチが悪い。そうではなくて、単純な誤解だとすれば、思い違いにも、ほどがある。いずれにせよ、つける薬がない>。  安全保障政策がデタラメで、経済政策もデタラメでは、ほんとにもう、つける薬がないじゃん!  よきエコノミストの必要条件は、独善的で懐疑的で執念深いことだなんていう一言も。中学2年でエコノミストを志したという浜先生の快刀乱麻な筆が冴える一冊である。
これでわかった!【超訳】特定秘密保護法
これでわかった!【超訳】特定秘密保護法 集団的自衛権の行使容認をめぐる安倍政権のいいぐさは、インチキくさいくせに複雑で、ほんと、精神が疲弊する。昨年の特定秘密保護法をめぐる議論もそうだった。だからって術中にハマりたくはない!  あの条文に難儀した人(あるいは読むのを断念した人)には「明日の自由を守る若手弁護士の会」による『これでわかった!【超訳】特定秘密保護法』をすすめる。日本語なのに翻訳が必要だってこと自体、いかにこの法律がねじくれているかの証拠。<日本には法律が1900くらいありますが、その中でも特に読みにくいものの一つ>とプロがいうのだから間違いない。 『超訳』はここを大胆不敵に突破する。なにせ「行政機関の長」は「大臣とか」、「特定有害活動」は「スパイっぽい活動」だからな。 <特定秘密を保有する行政機関の長は、他の行政機関が我が国の安全保障に関する事務のうち別表に掲げる事項に係るものを遂行するために当該特定秘密を利用する必要があると認めたときは、当該他の行政機関に当該特定秘密を提供することができる>とは第6条の冒頭。これでもまだわかりやすい部類の条文なのだが、別表を参照しなければならないのがわずらわしい。  超訳は別表の中身も加えて<「秘密」を持っている大臣とかは、他の省庁が日本の安全保障に関する仕事のうち「外交」「防衛」「スパイっぽい活動」「テロ防止」に関わる仕事をするために、自分のところの省庁で持っている「秘密」が必要だと思うときには、「秘密」を他の省庁にわたすことができます>。  この法律の何が問題かも、きっちり解説。言葉のわかりにくさだけでなく、曖昧な表現が多いのも秘密保護法の特徴なのだ。<法律の中でところどころ登場していた「別表」は、簡単に言えば「特定秘密に指定できちゃう情報リスト」です。/結論=際限なく特定秘密に指定できる!>。だまされないための虎の巻。廃止をめざす必携マニュアルだ。
テレビの裏側がとにかく分かる「メディアリテラシー」の教科書
テレビの裏側がとにかく分かる「メディアリテラシー」の教科書 帯の惹句が強烈だ。 <言ってしまえば、バラエティー番組はすべて「やらせ」である!!>  朝の人気情報番組「とくダネ!」のレポーターとして覚えている方もおいでだろう。著者はフジテレビの元アナウンサー。長谷川豊『テレビの裏側がとにかく分かる「メディアリテラシー」の教科書』は、テレビの現場で14年、その後フリーになった著者がテレビの裏側を告白し、読者に覚醒を促す辛めの警鐘本である。メディアリテラシーとは情報を批判的に見極める能力のこと。近年、相当広がってきた概念ではあるけれど、具体的な例をここまで提示した本はさすがに少ないかも。  07年、納豆のダイエット効果に関するデータの捏造が発覚した「発掘!あるある大事典2」。関西テレビは謝罪し、番組は打ち切りになったが、<あの謝罪放送自体が、世間の怒りをガス抜きするためのやらせだ!>。「あるある」の現場ではもともと「やらせ」的な過剰報道が日常的に行われていたのに。  05年、日本中を震撼させた「耐震強度偽装事件」。報道は過熱し、設計した一級建築士を<徹底的に叩け!>という指示で現場は動き、彼の妻を自殺にまで追い込んだが、6年後、<1000年に1度の地震が来ても彼らの物件やマンションはビクともしなかった>。あそこまで袋叩きにした以上、地震後の検証もなされるべきだったのに。  こうした事例を次々あげつつ、でも著者はいうのだ。だからといってマスコミは信用できんと怒るのはまちがっている。民放のお客は視聴者じゃないんだもん。民放の正体は株式会社。お金を出すのはスポンサーだもん。<テレビ画面に映っているのは「情報」ではない。情報の姿を借りた「商品」>なのだと。  やっぱテレビの人だなあ、と思わせる煽りの利いた筆致である。<マスコミがおかしい? 甘えるな!>といわれてムッとした人は必読。フジテレビが政府寄りの報道を続ける理由もわかります。
女性資本主義論
女性資本主義論 どうせまた「女性の人材活用」とかいって女を体よく使い倒そうっていう魂胆じゃないの? でなけりゃ「女性は消費の神様だ」とか持ち上げて、せっせと物を買わせる作戦でしょ。『女性資本主義論』という書名を見れば誰だってそう思う。なぜって今までがそうだったから。が、著者の高橋仁はいうのである。 <そもそも20世紀とは、おっさんの世紀だった。/おっさん資本主義という怪物が世界を跋扈し、市場という処女地を求めては開拓と拡大を喜びとしながら油ギッシュに活動していたものだ>。しかし<おっさん資本主義は、もう死んでいる>。  あれ、予想とちょっとちがう?  さよう、本書は「狩猟」「開拓」「征服」を基本動作とする従来の「おっさん資本主義」と決別し、「誠実」「利他」「共感」などをベースにした「女性資本主義」にシフトせよと説いた本。アダム・スミスに始まる経済学史まで動員し<おっさん資本主義では、もう食えない>ことを立証するのだから念が入っている。  いわく、おっさん資本主義にはブレーキがないので<これ以上の未開地がなくなっても、そのまま暴走を続けるほかない>。いわく、21世紀のトレンドは「グローバル化競争」だったが<そうした不毛な企業戦士の行進も、もう終わりである>。  それにかわる「女性資本主義」の実例として紹介されるのは、たとえば、おっさんにとっては低コストの生産工場でしかなかったバングラデシュで労働条件の整備からはじめジュート製のバッグをブランドにしたマザーハウス。中・低所得者層の家庭を訪問してニーズを引き出しインドネシアで紙おむつのシェアをトップに引き上げたユニ・チャーム……。  著者はエステ業界で成功した実業家。「なーんだ」という声は<そうした見方自体が「おっさん資本主義」の思考>と一蹴する。  主張の内容にはおおむね賛成なんだけど、このタイトルはやっぱり胡散臭い。『さらば、おっさん資本主義』にすればよかったのに!
九月、東京の路上で
九月、東京の路上で 「1923年関東大震災 ジェノサイドの残響」という副題通り、加藤直樹『九月、東京の路上で』は関東大震災時の朝鮮人虐殺を当時の記録や当事者の証言からドキュメンタリー風に描き直したレポートである。  地震の襲来は9月1日正午前。その日の午後にはもう「朝鮮人を殺せ」という声があがり、自警団や消防団が動きはじめていた。  警察署前でひとりの男の頭に鳶口(くちばし状の鉄製の刃がついた道具)が振り下ろされる。誰も止めない。<大ぜいの人間がますます狂乱状態になって、ぐったりした男をなぐる、ける、大あばれをしながら警察の玄関の中に投げ入れた>(9月2日、昼。神楽坂下) 「朝鮮人の暴動」というデマを警察が信じ、ついには軍が出動する。駅に到着した超満員の列車。<その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民のなかからは嵐のように沸きおこる万歳歓呼の声──国賊!朝鮮人は皆殺しにしろ!>(9月2日、午後2時。亀戸駅付近)  虐殺は各地に広がる。公園出口の広場に人だかりができ、ひとりの男を大勢が殴っている。<群集の口から朝鮮人だと云う声が聞えた。巡査に渡さずになぐり殺してしまえ、という激昂した声も聞こえた>(9月3日、午前。上野公園)  吉村昭『関東大震災』ほかで、それなりに知っていたつもりの虐殺事件だったけれど、その実態は想像以上。<東京はそのとき、かつてのユーゴスラビアやルワンダのようなジェノサイドの街だった>という表現は誇張でも修辞でもない。  ヘイトスピーチの現場で<「不逞朝鮮人」の文字を彼らのプラカードに見つけたとき、私は1923年関東大震災時の朝鮮人虐殺を思い出してぞっとした>と書く著者は東京・新大久保の生まれ。流言を侮るなかれ。東京は<かつてレイシズムによって多くの隣人を虐殺したという特殊な歴史をもつ都市>なのだ!
校閲ガール
校閲ガール <え? コーエツって何? 編集とかじゃないの? 出版社でしょ? 何する仕事なの?>。それは文書や原稿の誤りをただす仕事のこと。どんな本も雑誌も校閲なしには成り立たない。「週刊朝日」ももちろんそう。  宮木あや子『校閲ガール』の主人公はその校閲者だ。河野悦子は景凡社の校閲部に配属されて2年目。景凡社は週刊誌と女性ファッション雑誌が主力の出版社で、悦子もファッション雑誌の編集者志望だったが、「名前が校閲っぽい」という理由でここに回され、なんの興味もない文芸書の校閲をさせられている。  彼女が担当しているのは、たとえばエロミス(エロが売り物のミステリー)の大物作家・本郷大作の新作、覆面作家・是永是之の書き下ろし、セレブ御用達ブランドの代表者・フロイライン登紀子の古めかしいファッションエッセー……。作中には彼らが書いた文章と悦子が赤を入れた箇所も登場。カバーをはずすと「ゲラ」と呼ばれる校正紙を模した表紙が現れる! それやこれやで本好きな読者にはたまらない……はずなんだけど、せっかくの魅力的な設定をこの小説は生かしきれていない。 <だから私のせいじゃないって言ってんじゃんよ! あんたが指示書に書かないからでしょうが! 私はうちのルールどおりに鉛筆入れて開いただけなんですけど!?><空気くらい読めよこのゆとりが! なんだこの『漢字が多すぎて読みにくいがOK?』って!>ってな校閲者と編集者のやりとりがガチャガチャしすぎているせいなのか、はたまた<編集者と違って校閲担当者は普通、作家と顔を合わせたりしない>といいつつ、顔を合わせまくるうえ、ラブコメ風の展開まで待っているストーリーのせいなのか。  ジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』とも川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』ともちがう、校閲者のお仕事小説まであと一歩だったのになあ。いったい誰が悪いのか。作者か編集者か、それとも校閲者か!?

特集special feature

    いちえふ
    いちえふ <今日は俺たちの職場“1F”に皆様をご案内しよう><1Fは「いちえふ」と読む><現場の人間 地元住民 皆がそう呼ぶ 1Fをフクイチなんて言う奴はまずここにはいない>。竜田一人『いちえふ』の副題は「福島第一原子力発電所労働記」。事故後の福島第一原発で働いた経験を描いて講談社MANGA OPEN大賞を受賞。新人としては異例の15万部を刷ったという、いま話題のマンガである。  絵で描かれる1F敷地内のようすや作業前後のプロセス、夏の暑さなどはさすがにリアルで説得力大。が、それ以上に驚かされるのは、多重下請け構造の最底辺に位置する業者の労務管理のひどさである。  ハローワーク経由で右往左往したあげく、作者がようやく見つけた職場は6次下請け以下の黒森建設(仮名)。日給2万円というフレコミで郡山まで来たものの、日給8000円から寮費プラス食費の1700円を差し引かれ、寮は6畳間に2段ベッド3台という狭さ。しかも彼らは現場に入るまで1カ月ほどの待機期間があったため、いきなり給料の前借りという借金を抱えることになる。<いやまったくブラック企業なんてもんじゃなかったっスよね>。  だが、その一方、放射線問題に関しては妙に楽観的なのがこのマンガの特徴なのだ。<安全面についての不安は/無かったと言えば嘘になるが/今回の事故について放射線に/ついて自分なりに調べてみれば/一部のマスコミや「市民団体」が/騒ぐ程のものではないと/分かったし>、1Fから出た死亡者に関しても<死因は心筋梗塞/勿論被曝との関連はない>と書く作者。 <メディアの報じる/「フクシマの真実」なんて/そんな話ばっかりで/俺たちは正直うんざりだ>。それが現場のリアリズムだろうとは理解しつつ<「悪い話」ばかりが/偏って報道されがちな現状>に抗してこれが描かれたのなら、結果的には国と東電の思うツボ。告発の意識がないのが長所でも欠点でもある。
    介護はつらいよ
    介護はつらいよ 介護体験記が流行だけど、ここまで「本格派」の自宅介護を体験した人の手記は少ないと思うな。 『介護はつらいよ』の著者・大島一洋は「平凡パンチ」を経て「ダカーポ」「鳩よ!」の編集長を務めた名うての編集者。私もかつて大変お世話になった。その大島さんが2004年にマガジンハウスを定年退職。介護のために帰郷されたところまでは知っていたつもりだったが……。  父93歳、母88歳、息子の一洋は63歳。東京の自宅で父のSOSの電話を受け、ついに来たなと覚悟を決め岐阜県中津川市の実家に戻ったのが06年。妻は東京で同居する92歳の母の介護があり、弟も故郷には戻れず、中津川には親戚もいない。 <頑固な父と、私のこともわからない認知症の母の世話をするのは、息子の私一人では無理だと思えました。それでも、やらなくてはならない。無理だなどと引いている暇はなかったのです>。ということではじまった男ひとりの介護生活。  父を入院させた病院で<この歳で介護保険に入っていないとはどういうことですか>と看護師さんに叱られて、ようやく申請の手続きをする。父は要介護3、母要介護2。  父の不在に気づいた認知症の母がいった。「父ちゃんはどこ行ったの?」「病院」「どこの?」「市民病院」「そうかね、父ちゃんもボケてきたからね」。お母さん、すてき!  父母が交互に倒れるわ、トイレ問題は襲いかかるわ、老人介護施設でトラブるわ、本人も交通事故や白内障で入院するわ。それでも夜は酒場でストレスを発散し、かつての同級生たちに助けられ、母を看取って、父が100歳を迎えるまでの7年半。「気分が悪いの?」と聞く息子に98歳の父は答えた。「気分がどうのこうのというより、その前に生きてるかどうかという問題や」。お父さん、すばらしい!  淡々と書かれた介護日記にはお金の出入りなども細かく記され、参考になるところ大。エッセイとしても実用性の点からもオススメ!
    夢十夜
    夢十夜 往年の読者には「あたし、濡れちゃったんです」式の官能小説で知られる宇能鴻一郎センセが<三十年の沈黙を破り奇跡の復活!>(帯より)をとげた。副題は「双面神ヤヌスの谷崎・三島変化」。  作家の分身とおぼしき亜礼知之を主人公にした連作風の10編は旧満州からの引き揚げにはじまる自伝的要素を中心にしつつも、少年時代の性的な妄想あり、花魁小桜の隠れキリシタン秘話ありで、さながら高級素材も腐った鯛もおかまいなしに詰め合わせた幕の内弁当のごとし。 <東大でよかったのは入学時の達成感だけだ。あとは大失敗だった。まず嫉妬を買う>。<文学賞受賞後は同学の嫉妬にさらされた>。<当時、主流だった柴田翔、高橋和巳的な感傷>は軽蔑の対象でしかなく、<しかも純文学の世界は一発芸で稼ぐ以外は小さなパイの取り合い>なので<一刻も早く純文学から逃げ出すこと>にしたが、<時代小説はセリフが不自然だし、推理は推理小説が不自然だ。ポルノは大好きだし量産がきく。さっさと転向した。とまた苦節十年組から嫉妬攻撃された>。  このくらいの告白は、でもまだ淡泊なほう。六話、七話では狸にされた谷崎潤一郎と牛に変えられた三島由紀夫とが地獄から召還されて文芸漫談を繰り広げる。<ナルシシズムというのは作家にも俳優にも貴重な資質だよ。あとはそのナルシシズムに大衆を巻き込むことだ。太宰君もそれに成功している>(谷崎大狸)。<熱烈なファンは恐ろしい。亜礼君のように読み捨てられるものを書きまくるに限ります>(三島牛)。  あの谷崎と三島が亜礼を代弁し、亜礼に非礼を働いた連中を罵倒し、亜礼の人生を語る至福の展開。愛人を語り手にした恋愛小説風の九話と十話もじつは亜礼への愛の告白だし。 <ポルノはいちばん純粋で詩に近い小説です。私はポルノ界のモーツアルトと言われたい>とは三島牛が伝える亜礼の言葉。屈折した自己愛に満ち満ちた私小説。この込み入った自意識がたまらない!
    ジャパン・イズ・バック
    ジャパン・イズ・バック 著者は以前『原発危機と「東大話法」』(明石書店)で激烈な知識人批判を繰り広げた東大教授。『ジャパン・イズ・バック』はその安冨歩先生が、安倍政権とその支持者の謎を解き明かした快著である。  書名は2013年2月、安倍首相が訪米し、オバマ大統領と初の日米首脳会談を行った後の講演の演題に由来する。Japan is Back.<「日本は戻ってきた」という意味で使っているのだと思いますが>、一方では<「日本は後れている」とか「日本は後戻りしている」とかいう意味にも受け取れるのです>。  日本社会を覆い尽くしているのは「立場主義」だと著者はいう。夫や妻としての立場、親や子としての立場、会社や地域社会の一員としての立場。個人の意見より立場を優先する日本の民主主義はじつは「立場民主主義」であり、かつての経済成長を支えたのも、与えられた役割を黙々とこなす立場主義だった。  ところが今日、職場も家族も危機に瀕し、人々は「立場」を求めるようになった。さよう、いまや日本は<われらに「立場」を!>の時代になったのである。すべての立場を失った者にとって唯一残された「立場」は国籍、すなわち「日本人であること」だけ。「日本を取り戻す」、安倍式に発音すれば<イッポンをトレモロす>とは<あなたの立場を取り戻す>の意味なのだと。  いわれてみればたしかにそうかも。やる気はあっても「立場」がなければ評価されない社会。「立場上やむをえず」の行動がかつては戦争への道を開き、いままた明後日の方向を向いたアベノミクスを支える。  立場主義の三原則は<一 「役」を果たすためには、なんでもしなくてはならない。/二 「立場」を守るためなら、なにをしても良い。/三 人の「立場」をおびやかしてはならない>。立場主義から脱却する方法は簡単。納得できなかったら<「ハ?」/と言うだけ>。「俺(私)の立場はどうなるんだ」と年中叫んでいる人に読ませたい。
    てらさふ
    てらさふ わたしはこんなにも特別なのに、なぜ周囲は認めないのだろう。自信過剰な少女の前に現れた、もうひとりの少女。「ひとりでやる度胸がないなら、組んでもいいよ」  まるでドラマ「あまちゃん」のアキとユイ。朝倉かすみ『てらさふ』は北海道小樽の北岸オタモイを舞台に、女子中学生コンビ、頭の切れる堂上弥子と容姿に恵まれたニコこと鈴木笑顔瑠が「ここではないどこか」へ向かって疾走するお話だ。 「あまちゃん」のようにはじまった物語はしかし、あらぬ方向に転がってゆく。弥子が考えた最初のミッションは「小樽市読書感想文コンクールで最優秀賞を受賞すること」。企画立案を担当するのは弥子。演じるのはニコ。「わたしが書いて、ニコの名前で応募するの」。「ゆでたまごでいえば、ニコが白身で、わたしが黄身。それが『わたしたち』なの」  小説の初出のほうが先なので、ただの偶然なんだけど、最近どこかで聞いたような話ではないか!  ゴーストライター作戦はみごとに当たり、感想文は全国大会で文部科学大臣奨励賞をとる。策士の弥子はすかさず第2のミッションを発表した。「次は芥川賞を獲ります」  弥子は自分のためのウィキペディアの文案を考えていた。<日本の芸術家。映画監督、写真家、画家、小説家として名高いだけでなく、ファッションモデル、ミュージシャン、女優、声優としても有名>。いい気なもんではあるけれど、まーこんなものでしょう、中高生は。  女の子たちが大人をだますプロセスを痛快と思うか、痛々しいと感じるかは微妙だが、片方が「もう、やめようよ」といいだしたときから亀裂ははじまる。白身(外側)と黄身(内側)、ふたりでひとつの卵だったはずの弥子とニコにも断絶が! 「てらさふ」とは「てらう(ひけらかす)」を意味する古語。ヤングアダルト小説風なのに、中身はダーク。将来に希望が見いだせない今般の青少年には、でもこのくらい刺激的な物語のほうが効くかもね。
    小説 外務省
    小説 外務省 主人公の西京寺大介は1977年生まれ。東大を出て99年に外務省に入り、ハーバード大学とモスクワ大学でロシア語を学んだ外交官だが、外務省の方針に不信を抱き……。  孫崎享『小説 外務省』は『戦後史の正体』(創元社)で注目を浴びた元外交官による驚異の実録小説だ。現役の政治家がすべて実名で登場。作者自身も実名で登場する。外務省の高官についても、それぞれ特定のモデルがいるにちがいない。  物語は12年2月、鳩山由紀夫元首相のイラン訪問に外務省がストップをかけようとするところからはじまるが、徐々に明らかになるのは<「米国が望んでいない」はすべての案件を論ずる時の切り札である>という論理で押し切る外務省の歪んだ理念であり、何の定見もなくそれに引きずられる政治家たちの無能さだ。  そこでは過去の約束が平気でなかったことにされてゆく。尖閣諸島の領有権に関しては、田中角栄と周恩来(72年)、園田直とトウ小平(78年)の間で「棚上げにする」という暗黙の了解があった。それがいつどんな経緯で「日本固有の領土」とされたのか。小沢一郎も鳩山由紀夫も対中関係を重んじてきた人なのに、尖閣問題が民主党政権になって表面化したのはなぜだったのか。  主張の内容は『戦後史の正体』や『日本の国境問題』(ちくま新書)で作者がこれまで書いてきたことと重なるが、高校生にもわかる論理でここまで噛み砕いてみせた点に感服。エリート外交官にしてはちょいとナイーヴな西京寺と同僚の小松奈緒子も狂言回しにはぴったりだ。  背後には<日本は、「正しいこと」を「正しい」と言えない国になってきた>ことへの強い危惧が感じられる。<西京寺さん、左遷を恐れるな。左遷を恐れなくなると、できることはいっぱいある>とは、作中の孫崎享が主人公を励ます言葉。若い外交官、に限らず組織で働く人全員へのエールやアドバイスもちりばめられる。半沢直樹より実践的かも。とりあえず新入社員は必読かな。

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