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「今週の名言奇言」に関する記事一覧

小林カツ代と栗原はるみ
小林カツ代と栗原はるみ 料理本やNHK「きょうの料理」を彩ったなつかしい名前、現在も活躍中の名前が次々に登場する。副題は「料理研究家とその時代」。「本邦初の料理研究家論!」と豪語する阿古真理『小林カツ代と栗原はるみ』は、レシピ本も批評の対象になることを示した画期的な一冊だ。  戦後の料理界を彩った第一世代、第二世代の料理研究家は経歴的に似たところがある。結婚後、海外に赴任した夫とともに欧米で料理の研鑽を積んだ江上トミや飯田深雪。ロシア貴族と結婚して料理を覚えた入江麻木。商社マンだった夫について渡欧し、パリの料理学校で学んだ城戸崎愛。高度成長期の料理研究家たちは、憧れの西洋料理を日本の主婦たちに教える役割を担っていた。  80年代に入ると、しかし事情が一変する。女性の社会進出が本格化し、共稼ぎ家庭が増えると同時に料理にも簡便性と時短が求められるようになったのだ。その時代のスターが、本書のタイトルにもなった小林カツ代と栗原はるみである。  歴代料理研究家たちのビーフシチューの作り方がおもしろい。ブラウンソースから手作りし、おそろしく手間のかかる第一世代、第二世代のレシピに比べ、缶詰のドミグラスソースを使う小林カツ代、ドミグラスソースすら使わずトマトピューレととんかつソースで味を出す栗原はるみ。栗原の『ごちそうさまが、ききたくて。』(1992年)がベストセラーになった要因は〈レシピの民主化〉だと著者はいいきる。〈小林が起こした家庭料理の革命を、栗原はるみは完成させたのである〉。  男は外で働き、女は家を守るという性別役割分業と、加工品の利用や手抜きを嫌う料理界。その常識を破り続けた小林カツ代は、常に働く女性の味方であり、料理界のアジテーターだった。〈「今、乗り越えられればそれでいいんです」〉とは、 睡眠時間を削って弁当を作り続けていた頃を振り返って小林が残した言葉。レシピ本とは時代と思想が宿る技術書なんだ、としみじみ納得した。
書店ガール4
書店ガール4 リブロ池袋本店の閉店が決まるなど、全国各地で書店の閉店が相次いでいる。現在放映中のテレビドラマ「戦う!書店ガール」の原作である碧野圭『書店ガール』も、そういえば閉店がからんだお話だった。  新婚書店員・小幡亜紀(27歳)と独身のやり手店長・西岡理子(40歳)が活躍する『書店ガール』の単行本時のタイトルは『ブックストア・ウォーズ』(2007年)。当時、読んだときには「もう一押しかな」と思ったが、いつのまにかこの本は『書店ガール』としてパワーアップし、文庫書き下ろしの人気シリーズに成長していた。  とはいえ亜紀も理子もすでにベテラン書店員。新刊の『書店ガール4』は主役をもうひとつ下の世代に移した初々しい書店員小説だ。  舞台はこれまでと同じ吉祥寺。大手書店でバイトをしながら就活中の女子大生・高梨愛奈(20歳)と、駅ビル書店の契約社員から正社員に昇格したはいいが茨城県取手市という未知の土地でいきなり店長にといわれて戸惑う宮崎彩加(24歳)を中心に物語は展開する。  大学の仲間たちは身も蓋もない。〈愛奈、まだ書店業界に就職したいと思ってるの?〉〈えっ、本気?〉〈書店業界こそ斜陽産業だしなあ〉。他方、〈好きな本の話をしてもみんなには通じない。逆に根暗と思われて、引かれるだろう。だから、本好きであることをみんなに言う気はなかった〉と悟りの境地にある愛奈。  さよう、いまや本好きの若者たちは隠れキリシタンみたいにこっそり本を読んでいるのである。でも、隠れだからこそ尊敬もされるわけで。〈なんかさ、俺らとちょっと感覚が違うってか。損得で動いてない感じなんだよね〉とは愛奈がバイト先で企画した「就活フェア」を見に来た男子学生の高梨愛奈評。〈せっかくだから、何か選んでくれない?〉。なにそれ、新手の口説き文句?  この本が人気シリーズになったのも書店員さんたちの後押しがあったせいかもしれない。すばらしい。
差別の現在
差別の現在 副題は「ヘイトスピーチのある日常から考える」。好井裕明『差別の現在』はきわめて今日的な差別論だ。  ヘイトスピーチは〈「表現の自由」の領域から確実に逸脱している実践〉で、〈法的規制はできるだけ急ぐべき政治的案件だ〉というのが著者の基本的な立場である。しかし、では法的に規制すれば差別やヘイトスピーチはなくなるのか。  スマホと差別の関係を考察したくだりが「なるほど」だった。  電車の乗客の8割近くがスマホを見ているような昨今。彼らは電車を待っているが、スマホを手にすることで〈“電車を待つ”という現実に多くの「孔」があき、そこから別の多様な現実が流れ込み、彼らはその情報をもとに、自分が今生きている現実の意味を書き換えてしまう〉。わかるかな。つまり彼らは〈常に新たな「情報」に触れていないと落ちつかないし、「情報」を媒介とした他者との交信しか、もっぱら念頭にない〉。それは自分の周りにいる人が見えていないに等しく、必然的に他者への敬意や想像力を減退させる。差別とはそんな想像力の欠落から来るんじゃないかと。  在日、障害者、女性、性的マイノリティ。都議会のセクハラ野次から新聞記事や娯楽映画まで、多様な例を引きながら、差別にとことん向き合うことで、むしろ得られる「豊かさ」について考えさせられる。  ときおり挟まる一撃が痛快だ。なぜ大河ドラマには被差別の現実を生きた人物が主人公にならないのか、とかね。〈水平社宣言は、フランス革命の人権宣言に匹敵する意義ある歴史的事実〉なのに〈水平社運動をつくりあげてきた中心人物である松本治一郎という偉人の生涯はテーマにならないのだろうか〉。  便所の差別的な落書きなどに比べると〈ヘイトスピーチには、こうした暗さが欠けているように思える〉。そうだよね。せめて後ろめたさを感じてくれよ。巻末の推薦映画ガイドも秀逸。ありがちな論議にやんわりジャブを食らわす好著である。
ただいまラボ
ただいまラボ かつて佐々木倫子のマンガ『動物のお医者さん』が人気を博し、獣医学部の志望者が急増したことがあった。片川優子『ただいまラボ』の舞台も大学の獣医学科。学園ドラマ風の軽~いノリの青春小説ではあるのだが、他の小説とややちがうのはこんな場面があることだ。 〈俺たちはただひたすら3時間、袋に詰まった冷凍のシカの耳、通称シカミミを切り刻み続けた。血に染まるゴム手袋、マスクをしても分かる異臭〉。目的はシカのDNAを取り出して系統分類をすること。〈毎年、春になって繁殖して数が増えると、シカを狩るらしいんだけど、それを研究のために頼んで毎年送ってもらってるってわけ〉。シカミミは彼らにとって春の風物詩なのだ。  合コンも彼らにとっては鬼門である。〈獣医さんの学校って、どんなこと習うんですか?〉といわれても〈学校で習うのは基本的には牛馬豚犬の4種類なんだ〉。ぎゅうばとんけん? 〈獣医学はそもそも人に使役されている動物のための学問なんだよ〉。さらに続けて〈俺はいま脂肪前駆細胞使って実験してて。前駆細胞が脂肪細胞に分化するときのシグナル伝達をRNAレベルで見てるんだけど〉。相手はもはや〈へえー……〉しかいわず。  獣医学が学べる大学は全国にたった16校。うち私立は5校。入学試験の倍率は20倍近い。そのうえ6年間の学生生活の特に後半は実習あり、卒論あり、国家試験ありで大忙し。デートの時間もままならない。 〈文系の奴らの研究ってのは大体さ、過去の文献ひっくり返して昔の偉い人が言ってた言葉をコピペでつないでるだけだろ? そんなんは研究じゃねえと俺は思うよ〉。仏文科の彼女にそういった獣医学科4年の太一は冷たく返される。〈そっか。じゃあもう、文系のわたしとは全然違うんだね〉。こうして彼は翻訳家志望の彼女にふられるのだが……。  夢と現実の差があるのはどんなジャンルも同じ。ま、獣医学科志望の高校生は必読でしょう。
四月は少しつめたくて
四月は少しつめたくて おしゃれな女性誌の編集部を退職し、畑違いの『月刊現代詩』に移った「わたし」。谷川直子『四月は少しつめたくて』は、宮澤賢治の「永訣の朝」くらいしか詩の記憶がない新米女性編集者が、詩が書けなくなった大物詩人に新作を書かせるべく孤軍奮闘する物語である。  13年も詩を書いていないという詩人の藤堂孝雄は、新人とはいえ40歳をすぎた「わたし」こと今泉桜子に出会うなり「きみ、金持ってる?」といった。連れていかれた先はパチンコ屋。2度目に会って出かけたのは大井競馬場。「詩人が金持ってるわけないだろ。持ってたら詩人じゃない」とうそぶく藤堂。教科書にも作品が載っていた60歳すぎの詩人のダメさに「バカじゃないの、こいつ」と思いつつ「じゃあ競馬をテーマにした詩を書いてくださいよ」と彼女はあくまで粘るのだが……。  もうひとりの視点人物は、元文学少女で藤堂が主催する詩の教室に通う「私」こと50代の主婦・清水まひろ。彼女は一人娘があらぬ疑いをかけられ、口を利かなくなったことに悩んでいた。その娘の本棚に藤堂の詩集があったのだ。リーダブルな読み心地にもかかわらず、こうして小説は徐々に詩の言葉とは何かというディープな世界に踏み込んでいく。  桜子の求めに応じなかった藤堂が新聞のシャンプーの全面広告に詩を寄せていた。「なんで新作がここに載ってるんですか?」と詰め寄る桜子に藤堂はいった。「新作? それは詩じゃない。ボディコピーだ」「こんなひどい詩は書かない。金に目がくらんで広告の仕事を引き受けたんだ」。で、その作品とは──。 〈涙とともに/夜を明かしたことのないものは/朝の光の中でまどろむ/乙女の髪の冷たさを知るはずもない/その艶やかなうねりの中の/深いかなしみが/彼女をいっそう美しく輝かせることさえも〉  なるほど微妙かな。作者は高橋直子名で競馬エッセイなども出していた期待の作家。さて、詩とコピーの差があなたには理解できるか。
なりたて中学生 初級編
なりたて中学生 初級編 ひこ・田中の小説の中では特別な事件は何も起きない。でも、なんやおもろいねん。『お引越し』は両親が離婚した少女のお話、『ごめん』は思春期を迎えた少年のお話で、普通は「それを背景」に何か起きたりするものだが、ひこ作品では離婚や思春期自体が重大テーマで(子どもの身になってみりゃ、そらそうや)、そこをじっくり掘り下げる。 『なりたて中学生 初級編』の語り手は中学校に入ったばかりの少年だ。成田鉄男は6年生のとき隣の学区の一戸建てに引っ越したため、親友の菱田や小谷といっしょに行くはずだった土矢中ではなく、隣の瀬谷中に行くハメになった(にしても「どや」と「せや」って……)。 〈オレをこんな目に遭わせた張本人の一人が母親や。もう一人の張本人である父親は「仕事上の付き合い」という仕事に出かけてしまった。敵前逃亡ってやつ。まあ、父親のことは最初から当てにはしてへんから、それでもええけどな〉  小学校の卒業式では校長の式辞も5年生の送辞も6年生の答辞(読んだのは成績優秀な菱田だが)も全部しらじらしかった。中学校の入学式も同じやった。〈結局、式っちゅうもんはそういうことやねんな〉と納得していた鉄男に対して、小谷は電話でいったのだ。式は何のためにあるのか。〈親のためや。それからオレらを生徒として迎える学校の先生のため。オレらはここまで育ててくれておおきに。オレらを迎えてくれておおきにという感謝のために座っている〉。あれっ、こいつ、急に頭がよくなってないか?  はじめての制服。はじめての通学カバン。知り合いがひとりもいない学校。疲れ切って〈オレ、絶対に、ランドセルが向いてる。絶対にこっちのほうが得意や〉なんて弱音を吐いたりしている鉄男は、はたして一人前の中学生になれるのか。  3部作になる予定の、これは第1作。いまのところ鉄男は子ども子どもしているが、めっちゃ地に足のついた少年文学の王道や。

この人と一緒に考える

美味しんぼ「鼻血問題」に答える
美味しんぼ「鼻血問題」に答える 約1年前、2014年4月の「美味しんぼ問題」を覚えておられるだろうか。「ビッグコミックスピリッツ」に掲載された『美味しんぼ 福島の真実編』において主人公の山岡が鼻血を出すなどの描写が物議をかもし、ネット言論からマスメディア、自治体、環境省までマンガの内容を否定した、あの事件である。  雁屋哲『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』はこの事件を受け、『美味しんぼ』の原作者自らが世間の攻撃に敢然と反論した本である。 〈それは、非難とか批判というものではなく、『美味しんぼ』という作品と私という人間を否定する攻撃だったと思います〉と著者は当時をふりかえる。本書の主眼はしかし、作品では描ききれなかった「福島の真実」を伝えている点だ。  実際、本書の報告する福島の現状は私たちの予想をはるかに超えている。放射能汚染によって出漁や魚介の出荷が禁止され、機能停止に陥った漁港。有機農法に取り組んできたにもかかわらず、米の味を落としてもセシウムを吸収するゼオライトを土壌に入れるか農業をやめるかの選択を迫られる農家。依然として空間線量の高い町。住民を安心させるために防護服もマスクも着用しない自治体職員。そして福島第一原発の敷地内で見た、あまりに安易な作りの汚染水タンクと地下貯水槽。 〈福島の真実を語ることはタブーになっている〉と著者はいう。2013年のIOC総会で首相は「福島原発の汚染水はブロックできている」と語ったが、〈こんな嘘は「風評」どころではないでしょう。/それとも、福島について嘘でも安全だといえば、マスコミはそんな嘘を「風評被害」ではなく、「風評利益」として褒めたたえるのでしょうか〉。 『美味しんぼ』問題で見えた利権の構造。〈私は彼らを「ゲ集団」と呼ぶことにしました。/「ゲ集団」の「ゲ」は「原子力産業利権集団」の「ゲ」です〉。「ゲ集団」に疑問を持つ人、「風評被害」という言葉に怒っている人は必読だ。
本社はわかってくれない
本社はわかってくれない 秀逸なタイトルである。下川裕治編『本社はわかってくれない』。副題は「東南アジア駐在員はつらいよ」。タイ、マレーシア、フィリピン、ベトナムなど、このところ東南アジアへの進出いちじるしい日系企業。しかし、日本と現地とのビジネス感覚の差は想像以上のようで。  交通渋滞が茶飯事な上、バイク通勤者が多いベトナム。現地スタッフの遅刻はしょっちゅうだが、問題は雨期である。〈すみません。雨がひどくて。今日の午前中は休みます〉〈雨でいま、外に出られそうにありません〉などの連絡が次々に入る。日本からの問い合わせに〈今日は朝、スコールがあったので、返事が遅れます〉とメールもできず……。  ラオスの首都からの出張に女性社員を連れていくことにした某氏。ホテルはシングル2室。すると彼女がいった。〈知らない土地でひとりで寝るなんて怖いです〉。え、誘ってる? ではなくてラオスでは一部屋を何人もでシェアして暮らすのが普通。ほんとにひとりが怖いらしい。事実、男性社員との出張でも〈所長と同じ部屋にしてもらえませんか〉。本社からなぜ一部屋なんだと訊かれたらどう説明しよう……。  もっと大規模なトラブルもある。  ミャンマーに新規事務所を開設することにした某社。本社の決裁も下り、内装工事もほぼ終わり、現地スタッフの面接も進み、準備が整いつつあった頃、ビルのオーナーから退去通告が来た。オーナーがいうには〈やっぱりオフィスビルではなくてホテルにすることにした〉。本社にどう説明したらいいんだ……。  こんな話がザクザク出てくる小話集。ほんと、みなさま大変だ。  もっともあちらから見れば、そんなことでいちいち悩む日本人がおかしい、という話かも。本社との板挟みが悩みの中心に躍り出るのも組織優先の日本らしい。文化や習慣は違って当たり前。こうした経験を積めば、交渉下手といわれる日本人も少しは進歩するだろうか。異文化間の摩擦も明日への糧ってことで。
日本の「運命」について語ろう
日本の「運命」について語ろう 戦後70年の今年、安倍晋三首相がどんな談話を出すか、世間は興味津々(あるいは戦々恐々)だ。  浅田次郎『日本の「運命」について語ろう』は人気作家の講演録だ。多くの歴史小説を書いてきた著者は、冒頭近くで、明治維新から60年の昭和3年(1928年)に〈過去六十年を振り返るという国民的な運動〉があったことを紹介する。  当時は維新を体験した世代が残っており、さまざまな証言を集められ研究が進んだ。しかし〈その後、私たちは日本の近・現代を振り返ってきたでしょうか〉。第二次大戦に関しても〈きちんと振り返って「あの戦争はどういうことだったのか」と見直されていない気がします〉。  こうして徳川時代、明治維新、大正モダニズムの時代などが浅田流の解釈で講じられるのだが、おもしろいのは江戸時代の評価である。〈何といってもこの間、外国と戦争をしていません。ということは戦死者がいない〉。内戦も開府直後の島原の乱と幕末の戊辰戦争だけ。〈二百六十余年、戦争をしなかった政権など、世界中、有史以来どこを探してもありません。つまり徳川幕府が優れていたと言っていい〉  この件で、意外に重要だったのが参勤交代だ。300におよぶ藩の武士が大行列を組んで江戸と地元を行き来することで、街道や宿場の整備が進み、文化交流によって地域経済が活性化する一方、軍事力は大幅にそがれた。幕末の参勤交代の廃止は幕府の求心力だけでなく、江戸の経済をも崩壊させてしまった……。 〈私はこの平和な時代に学ぶ姿勢が、今も必要だと思いますね〉と語る著者。江戸時代を学ぶ意味は二つ。〈ひとつは現代につながる考え方や社会のありようを知ること。そしてもうひとつが、平和な時代が続けられなくなった理由について考えることです。/すなわち、それは国家と国民の運命を知ることなのです〉  戦後70年は2度目の「戦争をしない時代」だった。この記録を私たちはどこまで更新できるだろうか。
吉田松陰
吉田松陰 巻頭で〈「吉田松陰」がもてはやされるのは、幸福な時代ではないように思う〉と著者は書く。〈松陰は没後、さまざまな政治的な理由により、偶像化された。特に、大正の終わりから戦時中までがひどい〉  おもしろい。もっといって!  一坂太郎『吉田松陰』は松陰が偶像化される過程を明かした快著。松陰が尊皇攘夷のシンボルとされた理由は副題で示されている。「久坂玄瑞が祭り上げた『英雄』」。本書が描く松陰と玄瑞の姿は私たちが知っている「幕末のヒーロー」像とひと味もふた味も違っている。  山鹿流兵学の後継者として極端な英才教育を受け、9歳で長州藩の藩校・明倫館の教授見習いとなり、長じて脱藩したりアメリカ密入国を企てたりする松陰は〈「日本のため」という大義名分を自分の中に見つけたら、平気で道を踏み外す〉異端者だった。〈俗人離れした異端者だからこそ、没後は最も俗っぽい政治の場で利用された〉。忠君愛国の権化として〈大日本帝国にとって理想的な「教育者」に祭り上げ〉られる一方、〈国の要人を殺して物事を解決しようとする「テロリスト」としての一面〉は封印された。  一方、松陰の妹・文を妻とした玄瑞は、さほど熱心な松下村塾の塾生ではなかったにもかかわらず、松陰が30歳で処刑された後は、あの手この手で松陰の神格化を図る。高杉晋作とともに「松下村塾の双璧」とされたが、同志に切腹を強要するなど〈他人の命を簡単に奪い、その死を演出して政治的に利用する〉ことも平気だった玄瑞。25歳で自決するも〈こうなると「志士」ではなく、冷徹な「政治家」である〉。 〈死者をシンボルとするのは、実に賢明だ。生身の人間は大抵メッキが剥がれるものだが、死者はいくらでも都合よく変身させることができる〉。大河ドラマ「花燃ゆ」などでは描かれないだろう幕末の志士の負の側面。もやもやが晴れた。思えば私たちは長州藩と明治政府の史劇に長くとらわれていたのである。
核と日本人
核と日本人 〈マンガや映画から原爆の恐ろしさを学ぶ一方で、それほど恐ろしい原爆を、私たちは楽しんでもきた〉〈人びとは、ポピュラー文化を通して、核を恐れる態度を身につけるとともに、核を歓迎してきたのだとも言える〉。山本昭宏『核と日本人』の冒頭近くに出てくる言葉だ。  えーっ、そう? という疑問の声が出そう。が、本書を読めば誇張じゃないことが理解できるはず。  1945年から50年代前半までの占領期。日本人は原爆を特に忌避してはいなかった。核への恐怖が芽生えたのは54年、ビキニ環礁における核実験で第五福竜丸が被曝した頃からだ。『ゴジラ』は核の恐怖を内包した作品だったが、同じ頃、アメリカは「原子力の平和利用」へと政策の舵を切り、日本でも「平和利用」キャンペーンが華々しくはじまった。そちらの思想は『鉄腕アトム』に体現されている。  というように、1945年のヒロシマ・ナガサキ後から2011年のフクシマ後まで、日本社会は原爆や原発をどのように描いてきたかを本書は執拗に追うのである。  主人公が放射線を浴びて超能力に目覚めたり、登場人物が被爆者だったという「薄幸の被爆者」という定型が繰り返された60年代。原子力施設が破壊される特撮ドラマが流行した70年代。『AKIRA』や『北斗の拳』など「核戦争後」を描く作品が登場した80年代。しかし、と著者は指摘する。核戦争後の世界に〈放射線による環境汚染や健康被害は描かれないのである〉。  核の軍事利用と平和利用。核武装論と核廃絶論。二つの言説が温存されてきた一因は〈社会を揺るがす大きな出来事を画期として捉え、それ以前と以後とで時間を分ける思考法の存在〉ではないかと著者はいう。この発想は、やがてインパクトを失うのだ。ほんとだ! 3.11もまさにそれだもんね。  書名は地味だが中身は充実。新書一冊に詰め込むのはもったいないほどの情報が詰まった労作だ。
東大物理学者が教える「伝える力」の鍛え方
東大物理学者が教える「伝える力」の鍛え方 会社ではよく「ほうれんそう(報告・連絡・相談)」が大事っていうけれど、それをどうやるかが難しいんだ。まして人前でのプレゼンテーションなんてなったら……。上田正仁『東大物理学者が教える「伝える力」の鍛え方』はそんな「話し下手」なあなたのための本である。  たとえばこんな伝言。〈今日、Aさんが出かけたすぐ後、5時半ぐらいに、◎さんから電話がありまして、急ぎだったら携帯番号を教えましょうかって言ったんですけど、急いでないからいいですっておっしゃって、電話くださいって言ってました。あと、メール送りましたので、『よろしくー』って言ってました〉  結局、何なの? これを伝わるように言い直すと〈◎さんからお電話がありまして、メールを確認のうえ、電話がほしいそうです〉  伝言力をアップさせる3原則は、(1)「何を伝えるべきか」立ち止まって考える。(2)結論から先に言う。(3)余計なことを言わない。ううっ、耳が痛~い! 〈「伝える力」は、意識的な努力を積み重ねないと身につきません〉と著者は言い切る。〈雄弁さは必須の要素ではないのです〉。レベル1「用事が足りる伝え方(伝言など)」から、レベル2「聞く気にさせる伝え方(プレゼンなど)」、レベル3「人を動かす伝え方(交渉など)」まで中身はきわめて親切かつ実践的。  特に私が感心したのは、誘いを断る、苦言を呈すなど、言いにくいことを伝えるスキルだった。マジックワードは「言っていいですか」「聞いていただけますか」などの問いかけ。「はっきり言いますが」などの宣言は相手を萎縮させるが「厳しいことを言ってもいいですか」「どうぞ」という問いかけ→同意のワンクッションは相手の心を開かせる。  どんな場合も重要なのは、「幹」と「枝葉」を分けること、「事実」と「意見」を峻別すること。  大学やビジネスの場だけでなく、家族や友人の間でも応用できそう。あ、それと国会の中でもね。

特集special feature

    土漠の花
    土漠の花 カバー袖には「秋元康、絶賛!」「見城徹、号泣!」などの文字。「すべての国会議員と自衛官とその家族、そして平和ボケで想像力の萎んだ私達日本人全員が読むべき作品です」という草野満代氏(アナウンサー)の推薦文も「なんだかなあ」だけど、ともあれ売れ行きは好調。月村了衛『土漠の花』。自衛隊を主役にした話題のエンタメ小説だ。  舞台はソマリアとジブチの国境地帯。墜落したヘリの捜索救助に向かった陸上自衛隊第1空挺団の面々は、乗員3人全員の死亡を確認、遺体の収容方法を話しあっていた。そこに3人の女性が現れる。「助けて下さい」。ビヨマール・カダン氏族のスルタン(氏族長)の娘を名乗るアスキラとその縁者だった。敵対するワーズデーン氏族に追われているという。そのとき突然の銃声。隊長の吉松3尉ほか計3名の隊員と、女性2人が銃弾に倒れてしまう! 〈自分達は攻撃されている──なぜだ、一体誰に──〉〈分からない──だが、このままでは全員が死ぬ──〉。かくて隊長を失った友永曹長ら隊員にアスキラを加えた8名は、ジブチの拠点に帰還すべく、死の逃亡劇を余儀なくされるのだが……。  ソマリア沖の海賊対処部隊は実際に派遣されている部隊。ちょっと期待したのだが、結論的には、ま、ありがちな冒険活劇っすね。「自衛官は人を殺せるのか?」という帯の惹句に対応するように、若き市ノ瀬1士は〈もうやるしかないって……それで撃ちました。命令、ありませんでしたけど、撃ちました。自分、殺しちゃいました。何人も、何人も……〉とベソをかくが、自衛隊員らしい葛藤といったらそのくらい。みんな結局、銃は撃ちまくるし、逃走中のポカはやりまくるし、全体的にはアニメみたいな感じ?  もし仮に自衛隊がこのような部族抗争に巻きこまれる危険があるなら解釈改憲なんて適当な方法で自衛隊を外に出したらダメだよね。実戦経験のない自衛隊を国防軍に昇格させるのも危険すぎますよ。
    雪炎
    雪炎 舞台は北海道の架空の町・道南市。地元の鵡川原発から落ちる巨額の金で潤う市だ。11年12月、市長選に立候補すると表明した人物がいた。原発の廃炉を公約に掲げて!  馳星周『雪炎』はそんな設定ではじまる異色のエンターテインメント小説だ。市長選に立つといいだしたのは札幌で弁護士をしている小島大介。中学時代の同級生のよしみで選挙の手伝いを頼まれた語り手の「わたし」こと和泉伸は一笑に付す。 〈3・11が起こったからって、この町はなにも変わらん〉。〈札幌みたいな都会にいる弁護士先生にはわからんかもしれないが、原発が停まって以来、道南市はゆっくりゆっくり死につつあるんだ。(略)原発がなきゃ、この町は成り立たない。三十年かけて、そういう町になったんだ〉  ところが小島は意外な案を出す。サハリンから稚内、苫小牧まで天然ガスのパイプラインを通し、火力発電所を誘致するのだと。  利権に群がる人々の思惑。選挙戦の裏で仕掛けられる有形無形の嫌がらせ。やがてスタッフのひとりで、やはり中学の同級生だった女性が遺体で発見されるにいたり、道警の元公安警察官である和泉は、選挙戦の手伝いと犯人捜しの二股をかけ、物語は思わぬ方向に転がっていく。  若杉冽『原発ホワイトアウト』が原子力ムラの一端を担う中央官庁の物語なら、こちらはその地方版? さほどの意外性はないものの、原発立地自治体の裏事情を壊すのは容易じゃないと思い知らされる。〈おれたちの母国は、悲しいかなろくでなしの国だ〉とフィリップ・マーロウ気取りでうそぶく和泉。  後半、彼が小島の選挙を手伝う気になった理由を明かすくだりが泣かせます。〈故郷に沈鬱な影を落とし続けてきた原発に、結局のところ、わたしの人生観、世界観も影響されているのだ〉。だから〈原発の牙城に風穴をあけてやりたいのだ〉。  女性の描き方には不満もあるけど、まあ都会の「脱原発派」はここから考え直さないとダメですね。
    イスラム国の正体
    イスラム国の正体 湯川遥菜さんと後藤健二さん、ふたりの邦人を人質にした「イスラム国」とはどんな組織なんだろう。ニュースの行方を固唾をのんで見守りながら、怒りと疑問をつのらせた方も多かったにちがいない。  で、国枝昌樹『イスラム国の正体』。このタイミングを計ったように1月末までに続々と発売された「イスラム国」本の中の一冊である。 「イスラム国」はアルカーイダ系のグループから分派し、イラクとシリアの反体制過激派のひとつとして2011年から政府軍を相手に武力闘争を継続してきた。14年になって一気に支配地域を拡大し、6月29日には「国」を宣言。他の組織と異なるのは〈(1)「国」を名乗り、領土を主張し、行政を敷いていること/(2)インターネット上で効果的にメッセージを発信していること/(3)欧米人を含む外国人の参加が多いこと〉。ここまでは基礎情報といえるだろう。  しかし私たちの疑問は、なぜ彼らは人質の首を切るなどの残虐な方法を用いるのか。そしてまた、なぜそんな組織に世界中の若者たちが親和性を感じて集まるのかだ。 「人間とは思えない所業」と考えると思考停止に陥る。残虐性について著者はいうのだ。〈日本でも15~16世紀の戦国時代、武士たちは敵の首を切り、主人の前にさしだして褒美をくださいといっていたわけです〉と。〈わたしは、15~16世紀のメンタリティーの日本人が、21世紀の科学技術をもったらどうなるかと想像してみます。それがいまのイスラム国の姿なのでしょう〉  7世紀に書かれたコーランを字義通りに適用する「イスラム国」。その「青臭さ」が疎外された若者たちを引きつけ、3万~3万5千人の戦闘員のうちの1万5千人以上は外国人といわれる。背景にはイラク戦争後の政治的空白、「アラブの春」後の混乱など、先進国の介入があることも忘れてはいけないだろう。  相手は近代的な合理主義が通用しない中世の武装集団だった! 中東情勢はかくも複雑なのである。
    サラバ!
    サラバ! 1977年5月、「僕」こと歩はイランの首都テヘランで生まれた。石油系の会社に勤める父。チャーミングで社交的な母。4歳上の姉・貴子だけは問題児だったが、「僕」は幸せだった。ところが!  今期直木賞受賞作、西加奈子『サラバ!』は「僕」とその家族のじつに三十数年におよぶ物語である。  79年、ホメイニのイラン革命でテヘランを離れた一家は、しばし大阪ですごした後、父の次の赴任先・エジプトのカイロに転出。日本人学校の1年生に転入した歩は、そこでかけがえのない出会いを経験する。 〈これが成人した男女だったら、まさに運命的な出会いだ。ふたりはきっと顔を赤らめ、はにかみながら見つめ合っただろう。/でも、ヤコブも男だった。僕は少年だったが、ヤコブは僕より年上に見えた〉  エジプト人の少年・ヤコブとの蜜月は内気な歩を有頂天にさせる。日本語しかできない歩と、アラビア語しかできないヤコブが意思疎通のプロセスで発明した魔法の言葉が「サラバ」だった。〈「明日も会おう」「元気でな」「約束だぞ」「グッドラック」「ゴッドブレスユー」、そして、「俺たちはひとつだ」〉  語り手が少年であるためか、ちょっと児童文学風かもね。もっともそれは前半(上巻)の話。カイロで不仲が表面化した両親はやがて離婚。歩と姉は母とともに帰国して大阪へ。父は出家してしまうのだ。  小学生で人生の頂点を迎えた歩は盤石の容姿のおかげで20代まではモテモテだったが、30歳に至って身体上の大事件に遭遇。上昇気流に乗った姉とは逆に、人生のどん底に向かって突き進むのである。 〈自分に、こんな未来が待っているなんて、思いもしなかった〉とつぶやく歩。こういう形で「その問題(こ、これか!)」を扱った小説ははじめて読んだな。ジョン・アーヴィング『ホテル・ニューハンプシャー』を思わせる佳編。最後に待ち受ける逆転劇。児童文学ではないけれど、中高生に読ませたい。
    江戸オリンピック
    江戸オリンピック 舞台は21世紀の日本。主人公の名は伊藤博文。長州藩の籠球(バスケットボール)チーム「松下村倶楽部」のOBである。江戸に出てきた長州人の肩身は狭く、就職にも不利だった。なぜなら長州藩には幕府に逆らって暴走した過去があるから!  室積光『江戸オリンピック』はそんな伊藤たちが2020年の江戸五輪招致を画策する物語である。  ペリー来航に際し、平和的な開国に成功した徳川幕府は、その後も生き延び、発展した。が、21世紀の世界は白人国家が牛耳っており、有色人種の国で植民地化されていないのは日本などわずかだけ。「名誉白人」の地位を与えられた日本は戦争のたびに武器の輸出で経済発展をとげたが、それでよいのか。白人優先の世界を変えるべきではないのか。 〈俺は同志を募っている。長州だけではないぞ。外様藩として虐げられてきた地方や、日本だけじゃない、朝鮮、中国、東南アジア、いや世界中から人材を集めて行動を起こす〉  といいだしたのは広告代理店「江戸通」に勤める同じ長州出身の高杉晋作。伊豆野スポーツの宣伝部に勤める伊藤はビビるが、長州藩庁に就職していまは江戸詰の先輩・桂小五郎も乗り気。ネットで個人輸入を代行する会社「回援隊」を立ち上げた坂本竜馬、教育奉行所の西郷隆盛と大久保利通、江戸町奉行の勝海舟、はては西葛西に住むインド人弁護士のガンジーやネール、中国人の周恩来、朝鮮人の安重根まで加わって、有色人種の運動能力を見せつける五輪招致活動がはじまるのだ。  これぞまさしく流血のない革命。彼らは印籠電話でSNS「顔絵巻」に登録して友達の輪を広げ、視察のためにロンドン五輪に岩倉具視視察団を送りだすのである。  IOC総会でのプレゼンで楠本イネが発した言葉は〈スポーツで決着をつけましょう。これを日本では『お・と・し・ま・え』と呼びます。おとしまえ。おとしまえをつける〉。  伊藤博文と安重根が仲良く活動するラストはちょっと泣きそう。
    日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか
    日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか そうなのよ。それが知りたかったのよ! と思わせるタイトルのおかげで(?)、現在ベストセラー街道をばく進中。矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』は、孫崎享『戦後史の正体』などを含む「〈戦後再発見〉双書」シリーズ(創元社)を企画した編集者が自ら筆をとった本である。  2009年、政権交代によって成立した鳩山由紀夫内閣は9カ月しか続かなかった。普天間飛行場の移設問題に関して、官僚たちは首相ではない〈「別のなにか」に対して忠誠を誓っていた〉という鳩山発言を引きつつ、著者はいうのだ。日本の有権者にはそもそも選ぶ権利などなかった。〈日本の政治家がどんな公約をかかげ、選挙に勝利しようと、「どこか別の場所」ですでに決まっている方針から外れるような政策は、いっさいおこなえない〉のだと。 「どこか別の場所」とは日本国憲法の上位にある法体系、すなわち日米間の密約協定のこと。沖縄の基地問題は「安保法体系」が、福島の原発問題は「日米原子力協定」が支配している。しかも裁判所は、国家の統治にかかわる重要な案件については司法判断を留保するという「統治行為論」の支配下にある。とても法治国家とはいえない日本!  こうした問題を考えるときのポイントは〈いま私たちが普通の市民として見ているオモテの社会と、その背後に存在するウラの社会とが、かなり異なった世界だということ〉。つまりウラ社会の構造を撃たない限り、オモテの社会についていくら論じても意味がない!? 『戦後史の正体』同様、陰謀史観に引っぱられ気味なのが気にはなる。が、〈どう考えてもおかしな判決が出るときは、その裏に必ずなにか別のロジックが隠されているのです〉という警告には耳を貸すべきだろう。日本は結局、傀儡国家なのだ(しかも日本側の自発的隷従による)と思えば、今後の対処法も見えてくる?戦後史の一面を鋭くえぐった本であることは間違いない。

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