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慢性的水不足。川底は干上がり、地盤は沈む
慢性的水不足。川底は干上がり、地盤は沈む 干上がったザーヤンデ川    2020年4月から2023年1月まで朝日新聞テヘラン支局長を務めた飯島健太氏は著書『「悪の枢軸」イランの正体』のなかで、イランの深刻な水不足について言及している。年々悪化していく川の枯渇、人々の頼みの綱である地下水によって引き起こされる地盤沈下の影響とは? はたして水不足を解決する術は残されているのか『「悪の枢軸」イランの正体』から一部を抜粋して解説する。  水不足の深刻さは、イランでの日常生活から肌身に感じることである。イランは北部の一部の地域を除き、国土の大半は1年を通して乾燥しており、冬場は、加湿器を稼働していても湿度は常に10%台を示している。  むき出しになった大河  2021年11月、首都テヘラン中心部から南へ約350キロにある、国内の中でもとりわけ渇水に悩む中部イスファハン市街地に車で入った。最初に向かったザーヤンデ川の様子は衝撃だった。   水が一滴もないのである。  川底と思われる所は薄茶色の土がむき出しになり、ひび割れたガラスのような模様が一帯に広がっていた。川に水があったことをかろうじてうかがわせるのは、白鳥の形をしたレジャー用のボートだ。まるで陸地に打ち上げられた魚のように、船は土の上に船底を乗せた無残な姿をさらしている。現地の報道によると、川が枯れるようになったのは2000年代の初め頃で、いまではほぼ全域で枯渇しているという。川に水が流れている時はあっても上流のダムが開放されるわずかな間で、1年のうち多くても10日間余りらしい。 出番のないボート  イラン国内でもイスファハンは特に雨が降らない地域だ。年間降水量は2020年までの30年間の平均をもとにした平年値で148ミリといい、東京の1割にも満たない。私が訪問した時の雨量はその平年値をさらに下回り、歴史的な少なさだとも報じられていた。  雨は降らない。雨が降っても気温が高くて瞬く間に蒸発する。このような悪循環に水の消費量の増加が追い打ちをかけてきた。街中心部や周辺の人口は増えていて、産業も発展してきたことが背景にあるのだ。こうして川が枯渇したとみられている。  取材を続けていると、別の意味でびっくりする光景に出くわした。郊外の幹線道路を車で走っていると、小松菜のような青々とした菜っ葉が栽培されている農地を見かけた。また、世界遺産のイマーム広場や周辺の公園、街頭の樹木や芝生も、きれいな緑に覆われている。そこへホースで絶えず水を撒く作業員たちがいる。使える水はほとんどないはずなのに、どういうことか。  答えは、地下水だった。枯渇した川に頼れなくなると、地元の人たちは他に水源を求め、井戸を次々に掘るようになったのだ。しかし、地下水を汲み上げることは、地盤沈下という新たな問題を招いていた。あと10年で住めなくなると言われるくらい、イスファハンは新たな危機に直面していた。 地盤沈下の無人住宅街  ザーヤンデ川から北へ7キロ、実際に地面が陥没した現場へ向かった。ハーネ・イスファハンという地区の一角に住宅街がある。不動産業を営む関係者に案内を頼み、住宅街のゲートの中に入った。一区画あたり平均500平方メートルの広さで、庭付きの2〜3階建ての戸建てが整然と並ぶ。 ハーネ・イスファハン  だが、生活のにおいがしない。それもそのはずで、9割は空き家だという。家屋を囲む塀は傾き、ひびが入っているところが目立つ。住宅の前を通る濃い灰色をしたアスファルトの道路もひび割れていて、折れ線グラフのような亀裂が数10メートルにわたって何本も走っていた。波を打って盛り上がっている所も目につく。いずれも地盤沈下の影響とされている。  ここの住宅を扱う不動産仲介業のシーナ・アリハニ(30)に話を聞いた。  「家を売って違う場所に引っ越す人は増え続けているのですが、新たな買い手を見つけるのは難しくなるばかりです」  この地区で地盤沈下が起きるようになったのは4〜5年前からで、それに伴って家の購入者が見つからなくなっているという。  「地区全体で地盤が下がることになっていけば、本当に住めなくなります。仕事や住まいを変えないといけない日が来るのは、私にとっても目の前に迫る現実です」  川は干上がったまま、足元の地面が沈み続けるのを見過ごすのだろうか。テヘランに戻った私は、水問題を担当する鉱工業省に取材を依頼した。指定された時間に庁舎の執務室で待っていたのは、副大臣のアリレザ・シャヒディだ。彼自身、地質学の専門家で博士号を取得していて、国内で地盤調査した結果をまとめた著作もある。現状の問題について尋ねた。  「我が国で消費される水のうち9割は農業用ですが、そのうち半分は有効活用されていません」  ダムや貯水池、用水路や送水管を造る。それらを修繕する。いずれも必要なことなのに予算が限られ、十分に手をつけられていないそうだ。イスファハンで地盤沈下が深刻になっている理由も尋ねた。  「行政の許可を取らずに井戸を掘り、違法に地下水を汲み上げているからです。ただ、それはイスファハンに限った話ではなく、実は国内全域の問題なのです」  国として把握できている分だけでも、国内には井戸が90万カ所あり、うち4割超は違法に掘削されたものだという。  「イラン国内の全31州にある平野部609カ所のうち400カ所で地盤沈下が起きています。沈下が進む深さは平均すると年5〜6センチです」  イスファハンでは平均の3倍、年18センチに達するといい、副大臣は「あの地域は本当に危機的な状況です」と述べた。イスファハン以外の地域でも地盤沈下に伴う道路の歪みや建物の傾きといった例は報じられている。政府は事態の悪化を防ごうと、ひとまず違法な井戸を塞いでいるそうだ。  水不足の対策はないのか聞くと、副大臣は「海水を淡水化する技術の成否が、私たちの将来を左右します」と答えた。イランは南西部でペルシャ湾、南部でオマーン湾に面している。そこで採取した海水の塩分を取り除けば、飲み水など日常で使えるようになる。そうして処理した水を内陸部に送る計画があり、2019年頃から進めているそうだ。  確かに、近隣のサウジアラビアやアラブ首長国連邦、カタールといったイランと同じように砂漠が広がり、雨の少ない国々では、海水を淡水化することが定着している。いずれの国も主に豊富な原油や天然ガスの輸出によって財源を生み出し、淡水化の事業を進めてきた経緯がある。ただ、淡水化には多くのエネルギーが必要で、環境に負荷がかかっていることはおさえておきたい。  そうした湾岸諸国に比べて財源が乏しいイランでは、話が簡単に進みそうにない。それでも、現状では淡水化の計画を進める以外に、水不足と地盤沈下を止める道はなさそうだ。 「事業を進めるうえで日本の研究機関の協力も得たいと思っています。必ず成功させたいです」
「寝ても疲れが取れない」女医が陥った紫外線疲労 GWの外出に気をつけたいことは? 山本佳奈医師
「寝ても疲れが取れない」女医が陥った紫外線疲労 GWの外出に気をつけたいことは? 山本佳奈医師 山本佳奈(やまもと・かな)/1989年生まれ。滋賀県出身。医師  日々の生活のなかでちょっと気になる出来事やニュースを女性医師が医療や健康の面から解説するコラム「ちょっとだけ医見手帖」。今回は「紫外線疲労」について、鉄医会ナビタスクリニック内科医・NPO法人医療ガバナンス研究所の内科医・山本佳奈医師が「医見」します。   *  *  *    最長10連休となる、今年のゴールデンウィークが始まりましたね。日本気象協会(※1)によると、ゴールデンウィーク後半は、全国的に晴れて、お出かけ日和となる予報です。最高気温が、25℃以上の夏日の所が多く、暑さ対策が必要な、汗ばむ陽気が続くことが予想されています。    最低気温、最高気温ともに、全国的に平年並みか高くなることが予想されていますが、朝晩はヒンヤリ感じる、冷え込む日もあるとのこと。このような気温差が激しい時期は、寒暖差による疲労を引き起こしやすいことが知られています。    私もそうなのですが、「せっかくならいろんなところに行きたい」と思うが故に、旅では少々無理な計画をしがちです。しかしながら、無理のないスケジュールを心がけ、身体を休ませてあげる時間を確保することも、旅を最後まで続けるためには、気温差の激しいこの時期の対策として必要だと言えるでしょう。   サマータイムが始まる    さて、私が今住んでいるサンディエゴには、4月末になり、ようやく夏がやってきました。10度を下回る、寒いなと感じる日がやっとなくなり、最低気温は12度前後、日中は最高20度を上回るようになりました。冬季の曇りがちだった日々がようやく終わりを告げ、真っ青な晴れが続くようになったというわけです。    サンディエゴに40年以上住んでいる方(日本人)によると、「昨年に引き続き、今年も春は寒い……。本来は、4月ともなると、カラッとした暑さの夏の天気が続いているはずなんだよ」と言います。    今年の「サマータイム」は、先月3月10日からでした。今回で2度目のサマータイムへの変更自体は、さほど体調に不調を来さなかったものの、サマータイム変更後も、曇りや雨のふる日が続き、太陽の光が降り注ぐ日が少なかったこともあり、全然「サマー」とは言えません。なんだか落ち込みやすくなり、やる気が起きない日が続いてしまっていました。今から考えると、朝晩は10度を下回るものの、日中は18度から20度まで上がる気温の変動も、こうした体調不良の要因だったと思います。   【前回記事はこちら】 女医が考える中絶に関する権利 アリゾナでは160年前の法律が有効になることへの衝撃 https://dot.asahi.com/articles/-/219929 降り注ぐ日差しは気持ちいいものだが、注意も必要(写真はイメージ/GettyImages)    しかし、サマータイムへの変更から1カ月半が経ち、ようやく真っ青の空が広がる夏がやってきて、そんな心のモヤモヤは吹っ飛んでいきました。しかし、どうしたのでしょう。夕方5時ごろでも、まだ日中のように十分明るいため、街に繰り出すことができるのですが、どうも行く気力が起きません。寝ても疲れがスッキリとれず、なんだか疲れやすいのです。そんな症状に加えて、次第に朝が起きるのも辛くなってきたのです。    「待ちに待った晴天の日が続いているのに、どうしてビーチに行きたいと思えないのだろう……」   調べてみると紫外線が    昨年の夏、サングラスをかけずに外出していたことで、紫外線疲労を引き起こし、朝起きられなくなったことがあったのですが、どうやらその時の症状と似ているような気がします。そこで、調べてみると(※2)、11月から2月はUVインデックスが3から4(紫外線が中程度)、3月はUVインデックスが6(紫外線が強い)、4月はUVインデックスが8(紫外線が非常に強い)と、3月からすでに紫外線が強い状態が続いていたことがわかりました。    そのことを知らなかった私は、冬の時期はサングラスをかけたり、かけなかったりと、紫外線対策を怠ってしまっていました。朝晩や日ごとの気温の寒暖差による疲労の蓄積、そして、4月下旬から急に晴れが続き、紫外線もさらに強くなったことによる、脳疲労をも、引き起こしてしまったのかもしれません。     紫外線による脳疲労とは、紫外線を眼から吸収することで引き起こされると言われています。それにより、脳から疲労物質である活性酸素が大量に分泌され、脳の神経細胞がストレスを受けることで脳疲労を引き起こし、私たちは全身に疲労を感じるという仕組み(※3)が考えられているのです。    日本では紫外線対策といえば、帽子や日傘、日焼け止めクリームが主流だと思いますが、目から紫外線を吸収することを防ぐためには、サングラスの着用が必要です。サンディエゴでは、サングラスをしている人を年中見かけます。私も、夏は特に紫外線が強いことを知ってからは、サングラスを持ち歩くことが必須となりました。冬は着用を怠る日も多かったのですが、次の冬からは、外出時にはサングラスを常に着用することを心がけようと思います。    最後に、NHKの最長10連休の今年のゴールデンウィークは、昨年の約1.7倍、推計52万人が海外(※4)に出かけるという報道を耳にしました。渡航先の気候や天気によって異なるため、一概には言えませんが、渡航前に現地の天気や気温、UVインデックスを調べることをおすすめします。アメリカのロサンゼルスやサンディエゴにお越しの方は、サングラスは必須です。朝晩の気温差が大きい場合は、脱ぎ着できるものを持ち歩いて、寒暖差による疲労を予防することも大切でしょう。円安の影響により、食費も高いと感じてしまうかもしれませんが、水分補給は忘れずに、こまめにとってくださいね。   【参照URL】 (※1)https://tenki.jp/forecaster/a_aoyama/2024/04/29/28559.html (※2)https://www.weather2travel.com/california/san-diego/climate/ (※3)https://japan.cnet.com/release/30304876/ (※4)https://weekly.jins.com/library/knowledge28.html (※5)https://news.yahoo.co.jp/articles/26bd2284a1967765a55c43fd57b2e2a1d25d8eb8  
ヤバい時に手を差し伸べてもらえるSOSの出し方とは? デビュー3年目に激務で体調を崩し“休筆宣言”した作家の気づき
ヤバい時に手を差し伸べてもらえるSOSの出し方とは? デビュー3年目に激務で体調を崩し“休筆宣言”した作家の気づき ※画像はイメージです。本文とは関係ありません(Mary Long / iStock / Getty Images Plus) 『人間みたいに生きている』。その印象的なタイトルと生きづらさを丁寧にすくい取った物語は、多くの読者から支持され続け、刊行1年半が経った今でも重版を重ね、ついに7刷となった(2024年4月時点)。執筆者の佐原ひかりさんは、現役の非正規図書館司書でもある兼業作家だ。もともと小説家を目指していたのではなく、どうすれば司書を続けられるか考えた末に、文学賞に応募。その経緯は記事にもなり、話題となった。  デビューから3年目。連載4本を抱える人気作家となった佐原さんだが、その過酷な仕事量から体調を崩し、23年には4月から5月までの2カ月、作家業を休んでいた。デビュー当初に新人作家としてぶつかった困難から兼業作家の過酷な労働環境、さらにそこで気づいた「手を差し伸べてもらえるSOSの出し方」を、自身も書評家と会社員の兼業経験がある三宅香帆さんに語った。 「2カ月間執筆を止めることになりました。」デビュー3年目の“休筆宣言” 三宅香帆(以下、三宅):佐原ひかりさんは、デビュー3年目の2023年に2カ月間作家業を休むことを宣言されました。その経緯を伺えますか。 佐原ひかり(以下、佐原):仕事が山積みになっていて極限状態にあったときに、今身体のどこにどんな症状が出ていて何科に通っていて、というところまでダダ書きしてX(旧Twitter)でポストしていて(笑)、そのヤバさが客観的に見て伝わったのか、先輩作家お二人が大丈夫?今どんな感じ?って連絡をくださったんです。それで当時の状況をバーっと書き出して送ったら、「それはもう本当に危険な状態だから今すぐ対処したほうがいいよ」と助言をしてくれた。それで休筆できました。  後になって、当時のことをその先輩作家お二人と話したときに、佐原さんは手を差し伸べやすかった、救いやすそうだったと言われました。 三宅:SOSの出し方が上手だったということでしょうか。 佐原:例えば、「今この状況がヤバいのは、自分が愚図なせいだから、頑張るしかないよね。頑張る!」みたいに、ひとつのポストのなかで自分で答えを用意してしまっているメッセージだと、この人にたとえ「そんなことないよ」って言ったとしても響かないんじゃないかって思われてしまうんですよね。自分のせいにし過ぎていないメッセージを発信するということが重要なのかもしれません。 三宅:普通の会社でも、「とにかくヤバそうです」ということを共有してくれたほうが、手の出しようがありますよね。 佐原ひかりさんXポストより 三宅:兼業で作家をされていますが、その後労働環境は良くなりましたか?   佐原:休筆した後、出版社の要求を全て呑む必要はなく、もっと主体性を持っていいということを編集者に言われて、新しい作品の動き出しに時間を頂いてスケジュールを調整できるようになりました。  でも兼業で作家をしている以上、どうしてもできないこともあって。例えば金曜日に連絡が来て、月曜日までに返してくださいというようなスケジュールは、土日に予定があったら対応できなかったり、郵送物の配達が平日昼に届いて受け取れず、その受け取りにかかった一日のズレが致命的だったり。 できない自分とどう生きていくか。『人間みたいに生きている』に込めた思い 三宅:兼業で仕事をしている人は孤独になりやすいと感じます。業務量を把握している人は自分しかいないし、労働環境が悪くても人に相談できない。 佐原:そもそも自分が抱えている問題に気が付くことができない、自分が何に困っているかが分からない、言語化できないという問題もありますよね。 三宅:小説『人間みたいに生きている』でも、嫌なことを嫌と伝える、SOSを出すのが大事ということを書かれていましたね。執筆されてから日が経っていますが、本作を振り返って印象の変化はございますか。 佐原:執筆当時は、「身体と食のこと」を書いたなと思っていたけれど、今読み返すと、すごく「大人と子供のこと」を書いているなと思います。  高校生の主人公・唯(ゆい)は、食べる行為そのものに嫌悪感を覚える身体を抱えながら生きていて、同じく食べられない身体に苦しんでいる泉という大人の男性に出会い、彼が住む洋館に初めて安心できる居場所を見出す。でも、同じ悩みを抱えている二人の間には勾配があるんですよね。泉は大人で、お金もあって住むところもある。唯はまだ自立もできない年齢で、行き場もなくて。ラストシーンで、泉に会う場所は<ここじゃなくて、いい>と、唯が洋館以外でも泉に会いたいと伝えたことで、絶対的な差のある二人から脱する方向に行けたように、読み返していて思います。泉の住む洋館は二人にとってはシェルターでありながら二人の差を固定化させてしまう場でもあったから。  執筆当時は唯の視点で書いていて、大人の泉にも弱い部分があるのだと認めてしまうと、彼は自分にとって安全な人でなくなってしまうから、弱いところを見ないように、自分から進んで盲目になる様子を書いていました。もちろん大人の自分として、成人男性の元に通う少女を書いているという自覚はあったから、その塩梅も気にはしていました。 三宅:その意味で、唯と泉の関係はファンタジーではあるけれど、シェルターが必要な子供は絶対に居るから、今の時代にこういう物語があってくれることに希望を感じます。 佐原:家庭や学校で発生する悩みを、そこで解決する必要はないんですよね。学校で発生した悩みを学校で解消する必要はないし、家庭で発生した問題を家庭で解消する必要もない。別のところで解消してもいいし、むしろそうした方がいいんじゃないか、と考えながら書いていたように思います。 三宅:これまで小説では書かれなかったような、食への拒否反応を示す描写も印象的です。 『人間みたいに生きている』冒頭より 佐原:ひとつの行為に対して絶対正義は無いはずなのに、食べるという行為に対しては、それが絶対的にポジティブなものとしてまかり通っているという感覚があって、それがこの小説に反映されていると思います。昔から私自身ができないものが多くて、唯一できるのが勉強、それ以外はポンコツで生きてきた。できる人にとってはできないことって見えないから、できないところに光を当てたいと思っていたところに、編集者から食について書いてみませんかという話が来たので、あまり食べられない私と思って、じゃあ書こうかなって。  できないことができるようになったり、弱いものが強くなったり、そういう「成長」こそが物語の正義みたいに言われがちじゃないですか。でもそれだけじゃないはずだということも書きたかったんです。「できない」を「できる」にするじゃなくて、できない自分とどう生きていくか、「できない」をどう人生に組み込んでいくのか。だから、まずは自分が自分の味方になってあげられるように、そんな小説を書きたかった。 三宅:佐原さんご自身はできないことをどうやって受け入れてきたんですか? 佐原:私はできないですよって最初から言うようにしてますね。もっと明るく言っていいと思うんですよね。『おら、東京さ行ぐだ』って曲あるじゃないですか。あの曲の「テレビもねえ!」ぐらいの明るさで「できない!」って言っていいんじゃないかなって。言葉にしたからって伝わるとも限らないんですけれど、そもそも言葉にしないと自分の状態って伝わりようがない。みんな違う身体だから、痛みやその程度も分からないんですよね。想像にはやっぱり限界があるから。 佐原ひかり『人間みたいに生きている』>>書籍の詳細はこちら  休筆したことをきっかけに、それまでヤバいとは言いながら具体的なことは隠していたものを、全部発信するようになりました。 過酷なスケジュール、教えてもらえない“出版界の流儀”……。新人作家として直面した戸惑いとは? 三宅:『人間みたいに生きている』は3作目の書籍です。新人作家としてデビューされた当初に、直面していた戸惑いはどんなものがありましたか。 佐原:デビュー当初はそもそも全体の流れが分からなかったことが一番辛かったです。作品を書いた後どういうスケジュールでどうなるか全く分からなくって。とにかく編集者に言われる通りのスケジュールで進めながらも、出版業界って結構ヤバいんだなと驚いていました。きついスケジュールだったことには、色んな事情があったからだろうなと、今は想像しますが。  新人作家で何も分かっていないときだと、返事がこないのは私がこんなダメな初稿を書いてしまったからだ……と思っちゃうんですよね。だから、私が今新しくデビューされた作家に繰り返し言っているのは、担当編集から返事がなくとも、あなたの原稿が悪いというわけじゃなくて、単純に忙しくて返せていないだけ。だから、そこで自信を失う必要は全くないってことです。大丈夫だから!って。  編集者によって流儀が全く違うというのも戸惑いの原因でした。例えば最初に渡す原稿についても、締め切りを若干遅れてもいいからクオリティの高いものがほしいという方と、クオリティは7、8割でもいいけれどともかく締め切りに間に合って渡してほしいという方もいる。そういう流儀の違いは最初に言ってほしいのに、大抵は原稿を渡す段階で言われるから混乱してしまう。 三宅:普通の会社だったら、取引先に後出しでルールを言うって変ですよね。 佐原:「普通の会社だったらこうだ」という考え方が通じないんですよね。お金のことに関しても、「新人作家が原稿料のことを言うのは引きますね」と編集者に言われたことがあって。原稿料を尋ねたのは作家業を始めたばかりのときだったから、お金のことは聞いちゃいけないんだ、出版界の流儀があるんだって委縮しちゃいました。  今は、業界全体として、小説を書いてお金をもらっているということ、あるいは小説を書いてもらってお金を渡しているのだということをタブー視する必要はないんじゃないか、と思います。話をいただいた順に小説を発表すべしという慣習も疑問です。義理人情が第一、みたいな。作家だって生活がかかっているんだから、原稿料を見て仕事するという人がいたっていいんじゃないかな。  そもそも、作家と編集者という関係は本当にクローズドなんです。だから編集者に作家が無理難題を言われてしまったり、逆に編集者が作家からパワハラを受けてしまったりという話も聞く……。私が言いたいのは、「CCに上司を入れて送れないメールを、作家も編集者も送るな」ということですね(笑)。 三宅:そういう明文化されていない知見を共有する場があればいいのに、と思いませんか。 佐原:同じ新人作家でも労働環境が違いすぎて共有できないんですよね……。私の場合は文芸誌の新人賞でデビューしたわけではないから、「三作はこの文芸誌で発表しなくてはいけない」という“三作縛り”がなかったので、“三作縛り”のある人とは環境が違った。私の場合は、右も左も分からないうちにお付き合いだけが増えて、6月にデビューして9月には6~7社とやり取りしていたので、もうメールのやり取りだけで忙殺されてしまっていた。一方、“三作縛り”のある方は、この三作だけで終わってしまうんじゃないか、この担当編集者とは仕事しても未来がないんじゃないか、でも他社への行き方も分からない、という恐怖があると聞いたことがあります。  縦の繋がりも少ないけれど、横の繋がりも少ない。だから、何が普通で何がおかしいのかが分からないんですよね。 三宅:最後に、新たにデビューされた作家の方々に伝えたいことを伺えますか。 佐原:思ったよりも同業の方って優しい、ということは言いたいですね。私の知る限りでは足の引っ張り合いなんてない。先輩作家さんは先輩作家さんで、新人作家がじたばたしているときに声をかけたいけれど、声をかけたら圧になっちゃうかもしれないと躊躇ったりしていることもある。だから臆さずに相談してほしいなと思います。
食品も衣料品も足りない 経済制裁が市民を直撃
食品も衣料品も足りない 経済制裁が市民を直撃 客の「ツケ」を記録した白い紙  長年にわたる米国による経済制裁はイランの人々の生活にどれほどの影響を与えているのか?2020年4月から2023年1月まで朝日新聞テヘラン支局長を務めた飯島健太氏は、著書『「悪の枢軸」イランの正体』のなかで、経済制裁による生 活苦の実態について言及している。貧窮にあえぐイラン国民のリアルな声を『「悪の枢軸」イランの正体』から一部を抜粋して解説する。 おびただしい数の白い紙  米国による経済制裁がイランにどのような影響を及ぼしているかという問題は、私が在任中、継続して取り組んだ取材テーマである。2020年11月、首都テヘラン北部の住宅街にある青果店を訪れた。どこの街角にもあるふつうの店だ。  店主の男性(38)は暗い顔をしていた。 「1日あたり300人は来ていたお客さんはいまや半分、いや、100人も来ない日があるかもしれないなあ」  値段はこの1年の間に2〜4倍以上になったという。店主に値上げの構図を聞いた。  農家が畑で使う肥料の価格、野菜や果物を収穫したあとに詰めるプラスチック製のパックの代金、畑から市場へ、市場から店頭へ運ぶ運送費といったあらゆるコストが上がっている。しかも、肥料やパックは輸入に頼っていることが多いという。  そもそも経済制裁の影響によって全体の輸入量そのものが減り、モノが不足している。それに伴って幅広い商品やサービスといった価格を全体的に押し上げているのだ。さらに、対米ドルの為替レート(実勢)の暴落が追い打ちをかける。私が在任中に1ドルは15万リアル程度が40万リアルまで下がった。  レジの真横にある陳列棚を囲う金属板には、20〜30枚の白い紙がゴム製のクリップで留められていた。紙はレジで打ち出したレシートで、客の「ツケ」の金額が記録されていた。常連客のなかには給料が大きく減ったり、支給が止まったりするケースが増えているという。  家計の負担が重くなる一方なのは私も実感していた。自宅から徒歩5分の所にスーパー「デイ・マート」がある。日常で必要なものは何でもそろう便利な店だ。ナンと呼ばれる平たいパンを私は朝食用に買っていた。しかし、これも現地で生活している間に3倍に値上がりした。また、鶏肉や牛肉、卵、牛乳やバター、ヨーグルト、チーズといった食卓に欠かせないものも例外なく値段が上がった。  果汁100%のジュースやコーヒー豆、ピスタチオ、ドライフルーツといった品はもはや「贅沢品」になり、買い控えるようになっていった。 奪われる生活の楽しみ  地元の人たちの物価の高騰に対する怒りや不満が相当に高まってきていると感じたのは、貧困層が多く暮らすテヘラン南部の住宅街を訪れた時だ。細長い道路が伸びる路地裏の一角にある工房から、焼きたてのパンの香りが漂ってきた。ラバーシュと呼ばれる薄い生地のパンで、イランでは食卓やホテルの朝食によく出る。 パン工房  しかし、こうした日常の食べ物も例外なく値段が上がっている。原料である小麦そのものの価格が急騰しているのだ。ロシアがウクライナに侵略をはじめたあとに小麦の供給量が世界的に減ったことも影響しているとみられる。イラン政府はこれまで、小麦の輸入業者やパン製造業者に補助金を割り当てていたが、2022年4月下旬にいきなり打ち切ると発表した。      政府は理由について、補助金によって割安になった小麦が密輸出され、不当な利益を得ている業者がいるためだと説明したが、実際は制裁の影響による財政難が原因だと多くの国民は見抜いていた。補助金が削られると、パンやパスタの店頭価格は一気に3倍へ跳ね上がった。  パン工房から歩道に出てきた主婦サウアズ・ヘイリ(28)は、8歳の長男と5歳の長女を連れていた。 「節約してどうにかやりくりしています。状況がこれ以上悪くなれば、生活は必ず行き詰まります。子どもたちの将来が心配です」  食費を確保するため、外食や家族旅行といった楽しみを我慢し、子ども服の買い替えを控えているという。生活の楽しみを奪われ、子どもの未来も安心できない様子だった。 欠品だらけの医薬品  我慢や節約で済まない状況があると思い知らされたのは、私の家族が病気になった時である。新型コロナウイルスの流行がやや落ち着いた2022年3月27日、私は妻と7歳になる長女、1歳7カ月を過ぎた長男をテヘランに呼び寄せた。  ところが、長男は地元の保育園へ通園をはじめてから3日目の夜に発熱し、39.5度まで上がった。翌日以降、長男は空腹を訴えている割におかゆやスープを作ってもほとんど口にせず、下痢もするようになった。私と妻の心配は限界を超えた。発熱から4日目の朝、総合病院のデイ・ホスピタルに連れて行った。薄暗い廊下の壁に沿って置かれた長いすでは、高齢者のほか、保護者に抱かれた赤ちゃんがずらりと待っている。 デイ・ホスピタル    ようやく案内された診療室で問診を受けるも、英語でうまくやり取りできず、長男の様子は医師に正しく伝わらなかった。触診では、ベッドに横にさせた長男の腹部を数秒なでた程度だった。医師は「一般的な風邪ですね」と診断し、計3種類の解熱剤と整腸剤を処方すると説明した。机の上にあったメモ用紙を手に取り、ボールペンで薬の種類を書いてスタンプを押す。「こんな簡単なメモが処方箋か」とげんなりしつつ、その紙切れを院内の薬局に出した。  落ち込んでいた気分は絶望感に変わる。シロップの整腸剤は在庫がなかったのだ。病院の外に出て別の薬局を探す。目に付いた店舗に入ってみるが、どこも在庫を置いていない。ようやく4軒目で処方薬を見つけられた。  後日、改めて薬局を取材で訪れると、販売員のカーベ・エスラムドスト(27)が言った。 「薬不足は常態化し、在庫が切れてもすぐに補充できません。やはり制裁の影響が大きいです」  本来、医薬品は人道上の観点から制裁の対象外ではある。ただ、外国の製薬会社は制裁を科されるリスクを極力避けようとするため、イランと取引するのを控える傾向が強いようだ。一方、国産の薬はあるものの、原材料の多くを輸入に頼っている。制裁のあおりを受けて国内の製薬会社も手元資金が少ないうえ、為替レートで通貨リアルの暴落もあり、原材料の入手が滞っていると聞いた。  病院を受診してから2〜3日が経ち、長男の体調は戻ったが、そのあとも、長男をはじめ、長女もたびたび、咳や下痢、発熱、体の発疹に悩まされることになった。  処方箋を出された時はそのたびに、薬局を2〜3軒まわってどうにか薬を手にできた。在庫がなく、処方薬とは異なる別の薬を渡されたこともあり、薬を得られないかもしれない不安や恐怖は常に消えなかった。
貸し渋られる「高齢者」をターゲットに利益を出す大家は何が違うのか 「高齢者リスクはほぼ外部サービスで解決できる」
貸し渋られる「高齢者」をターゲットに利益を出す大家は何が違うのか 「高齢者リスクはほぼ外部サービスで解決できる」 高齢者への住宅賃貸はリスク…という認識は変わっていくかもしれない。画像はイメージ(GettyImages)    近年、社会問題となっているのが、高齢者が賃貸住宅への入居を拒否される「貸し渋り」だ。貸主の大家が、孤独死や家賃滞納のリスクを懸念して嫌がるケースが目立つ。だがその反面、高齢者を積極的に受け入れ、利益もあげている大家もいる。そうした大家に実態を聞くと、高齢者へのさまざまな懸念は、ただの思い込みという側面も見えてくる。  *  *  *  総務省によると、65歳以上の1人暮らしの高齢者は、2040年には約900万人に増えるとされる。  また、国立社会保障・人口問題研究所が今月公表した推計によると、2050年には、国内の全世帯に占める1人暮らしの割合が44.3%となり、このうち65歳以上の高齢者が半数近くに達する。身寄りのない独居の高齢者が急増する見通しだ。   年を取れば体力は衰える。持ち家が広すぎて持て余すなど、より暮らしやすい物件に住みたいと考え、賃貸住宅を探す高齢者はどんどん増えることが予想される。   だが、65歳以上の顧客を専門にする不動産会社「R65」がこのほど、全国の賃貸オーナー500人に対して行った調査では、「高齢者を積極的に受け入れている」と答えたオーナーは19%にとどまり、「受け入れていない」が40パーセントを超えた。 ただ一方で、高齢者を積極的に受け入れている貸主もいる。  「高齢者だとリスクがある、問題が起きる、というのは、勝手なイメージだと思います」   そう話すのは、関西で父親の跡を継いで大家業をしている神吉(かんき)優美さんだ。 家賃の滞納はめったに起きない   神吉さんの家族は複数の集合住宅を所有しているが、入居者の半数以上が65歳以上の高齢者だという。ずっと住み続けて高齢になった人もいるが、毎年十数人の高齢の新規入居者を受け入れてきたという。  「結婚して子どもを育て、その子どもが独立して家を出て、その後、夫や妻と死別してひとりになったという方もいますし、入居する時点ですでに高齢の方もいます。新規入居の方で最高齢は89歳の男性でした」(神吉さん、以下同)   神吉さんは、高齢者を受け入れるにあたって、どのような工夫をしているのか。   まずは家賃滞納への備えだが、神吉さんは入居する条件として、家賃滞納があった際に、それをカバーしてくれる保証会社との契約を必須にしている。   と言っても、高齢者の滞納が目立つからではない。逆に高齢者は年金暮らしで収入が安定しており、身の丈にあった生活をしているため、滞納はめったに起きないという。認知症になって支払いができなくなったときのリスクを回避するためだ。  「家賃滞納に関しては、高齢者より、リストラや仕事をやめたりして収入が一気に減る可能性のある若い世代の方が、リスクがあると感じています。保証会社の方と話しても、滞納は若い世代の方が目立つと聞きますね」  そして、大家が最も懸念するのは孤独死だろう。特に発見が遅れた場合、大家にも心理的負担が生じるし、特殊清掃に大きなお金がかかるためだ。 唯一の懸念は「認知症」   ただ、神吉さんはそのリスクにも懐疑的だ。見守りサービスの利用や、清掃費をカバーしてくれる保険が販売されており、事前に取れる対策はある。   そもそも、高齢者は日中、家にいるため、大家や管理人は接点を持ちやすいというメリットがある。介護サービスを利用している人も多く、人との「つながり」によって、万が一の時にも早期発見につなげることができる。  「高齢者だから発見が遅れる、というのは事実ではないと思います。ただ、人とのつながりがなく、介護サービスも受けずにずっと家にいる1人暮らしの高齢者は、発見が遅れるリスクがあります。自分は大丈夫だと思わず、介護サービスは積極的に受けてほしいです」   入居者が亡くなった際には「残置物」の処分をどうするかという問題もある。だがこれも、処置の手続きや費用を保証してくれるサービスがある。残置物を円滑に処分できる「モデル契約条項」も国土交通省と法務省が示しており、備えさえしておけば大家の負担は少ない。   神吉さんが唯一、強く懸念するのは入居者が認知症になった場合だ。「大家だけでは限界があります。地域包括支援センターと大家が協力して対策を取っていくことが重要で、その体制を充実させていく必要があると考えています」   神吉さんが高齢者を受け入れるのは単なる「善意」ではない。利益もしっかり確保している。高齢者は次の物件探しが難しいため、長期の入居を望む。滞納や“夜逃げ”もなく、安定した賃貸経営につなげやすいのだという。 大家との関係性が「見守り」につながる   安定的な経営のためには、高齢者との関係づくりも重要になる。神吉さんは管理している物件に出向き、入居者たちとの交流に努めている。旅先で大量に土産を買ってみんなに配ったり、世間話をしたり、その関係性が「見守り」につながる。   さらに、高齢者たちの社会参加や生きがいづくりにも取り組んでいる。物件の近所の清掃活動をはじめ、特定の入居者に、ごみ集積場で分別をチェックする役割を任せたりもしている。いずれもボランティアではなく、働いてもらっただけの賃金をちゃんと支払う形だ。役割があることで、高齢者が生き生きすることを実感している。  「現代における、下町的な人間関係をつくっていきたいと思っています」   さまざまな人間が暮らす集合住宅。問題が発生することもある。   それでも、神吉さんはこう思いを語る。  「認知症を除けば、高齢ゆえのリスクは少ないと感じています。人間、誰もが年を取りますよね。勝手なイメージを作って、それを理由に高齢者の排除を続けるのは良いことではないと思います」   親や自分が老いて一人になったとき、賃貸に移り住むという選択肢があった方が、暮らしやすい老後につながることは間違いないだろう。 (國府田英之)
【ゲッターズ飯田】今日の運勢は?「変化を楽しんでみるといい日」銀のインディアン座
【ゲッターズ飯田】今日の運勢は?「変化を楽しんでみるといい日」銀のインディアン座 ゲッターズ飯田さん    占いは人生の地図のようなもの。芸能界最強の占い師、ゲッターズ飯田さんの「五星三心占い」が、あなたが自分らしく日々を送るためのお手伝いをします。12タイプ別に、毎週月曜日にその日の運勢、毎月5のつく日(毎月5、15、25日)に開運のつぶやきをお届けします。 【タイプチェッカー】あなたはどのタイプ?自分のタイプを調べる いま日本で一番売れてる占い師・ゲッターズ飯田さんの最新刊『五星三心占い2024年版』は、全国の書店・ネット書店・セブンイレブンにて発売中!   【金の羅針盤座】 身の回りを片付けるのがオススメの日。季節外れのものをしまったり、しばらく着ない服はクリーニングに出したりして、身の回りをスッキリさせましょう。 【銀の羅針盤座】 無理をすると体調を崩したり、ケガをすることがあるので気をつけましょう。時間に追われて慌てないよう、「10分前行動」を意識して過ごしてみて。 【金のインディアン座】 日中はいい流れで過ごせそう。直感を信じて行動したり、思い浮かんだ人に連絡してみるといいでしょう。興味のあるものを見つけられることや、いい情報を入手できることもありそうです。 【銀のインディアン座】 変化を楽しんでみるといい日。初体験のことに自ら飛び込んでみると、いい経験ができそうです。イメチェンしたり、ふだんなら行かない場所やお店に行ってみるのもオススメ。 【金の鳳凰座】 無理は控えたほうがいい日。体力があるからと過信せず、疲れた体をいたわることも必要です。今日は予定を詰め込まないように。外出するなら、マッサージやエステなど、心身を癒やすために時間を使ってみるといいでしょう。 【銀の鳳凰座】 好きな人や気になる人に連絡してみるといい日。相手から告白されるのを待っているのもいいですが、未来の話を振ってみると、今後の2人の関係がわかってくるかも。自分の将来をよく考えてみることが大事です。 【金の時計座】 忘れ物や、自分でもびっくりするようなミスをしやすい日。時間を間違えて延長料金を支払うことになったり、ドジなケガや恥ずかしい失敗もしがちなので、気をつけておきましょう。 【銀の時計座】 意外な人から遊びに誘われそうな日。考え方の違う人の意見を聞くからこそ、視野を広げられるものです。「世の中には、いろいろな人がいる」ということを覚えておきましょう。 【こちらも話題】 【ゲッターズ飯田が教える】「運がいい時期」で輝くために、「もっとも重要なこと」とは? https://dot.asahi.com/articles/-/13518 ゲッターズ飯田の五星三心占い   【金のカメレオン座】 買い物をしたり、決断をするにはいい日。気になる場所にも行ってみましょう。素敵な出会いもあるので、フットワークは軽くしておくこと。資格取得に向けた勉強などを本気ではじめるのもオススメです。 【銀のカメレオン座】 付き合いの長い人の話やアドバイスが大切になる日。厳しい一言をかけられることもありそうですが、ハッキリ言ってくれる関係性を大事にしましょう。夜からは、買い物をするといい運気です。 【金のイルカ座】 判断力が鈍りやすくなるので、周囲の流れに身を任せる1日にしてもいいかも。いつもとは違う生活リズムを楽しんでみましょう。 【銀のイルカ座】 日中は思い通りに進み、楽しい時間を過ごせそう。ですが、夕方以降は空回りしやすくなったり、トラブルに巻き込まれてしまう場合も。困ったときは、ひとりで無理せず、周囲に助けを求めましょう。 【こちらも話題】 【ゲッターズ飯田】「完璧な人」が幸せになれる訳じゃない?恋愛成就のコツ2選 https://dot.asahi.com/articles/-/13510
なぜ「味の素を使う料理研究家」はSNSで大人気になったのか…食卓から「味の素」が消えていった本当の理由
なぜ「味の素を使う料理研究家」はSNSで大人気になったのか…食卓から「味の素」が消えていった本当の理由 ※写真はイメージです(gettyimages)    味の素をはじめとするうま味調味料をめぐって論争が絶えない。ライターの澁川祐子さんは「この論争は100年にわたって続いている。味の素が人気になりだした大正時代には『原料がヘビ』というデマさえ流れた」という――。 ※本稿は、澁川祐子『味なニッポン戦後史』(インターナショナル新書)の一部を再編集したものです。 一世を風靡したはずの調味料が大っぴらに語られなくなった  あの赤いキャップの小瓶が食卓から消えたのはいつだったのか。  記憶をたぐってみても、はっきりと思い出せない。覚えているのは、小瓶からさっとふり出される細長い結晶が醤油の小皿できらめいていた光景だ。父はいつもその結晶入りの小皿に、漬けものをちょんちょんとつけて食べていた。少なくとも1980年代初めまではあったように思うのだが、いつのまにか姿を見かけなくなった。  そう、「味の素」である。かつて「化学調味料」と呼ばれ、のちに「うま味調味料」と言い換えられたあの白い粉だ。  以来、ラーメン屋や食品のパッケージで「化学調味料不使用」「無化調」と否定の形で語られているのを目にすることはあっても、とくに意識することなく過ごしてきた。一世を風靡したはずの調味料は、いつしか大っぴらに語られることがなくなっていたからだ。  でも、それは単に見えなくなっただけだったと、『町中華とはなんだ 昭和の味を食べに行こう』(北尾トロ、下関マグロほか著、立東舎、2016年)を読んでその存在を思い出した。同書は、町中にある大衆的な中華食堂「町中華」が注目されるきっかけになった本だ。著者の面々は「町中華探検隊」を名乗り、今も活動を続けている。 町中華が生き延びてきた背景に化学調味料あり  本では、個人経営の店が多い町中華が生き延びてきた理由を「化学調味料=化調」による「中華革命」があったからだと述べる。多くの店が「化学調味料」を使うことで、ベーシックな味が確立された。しかも、その味はすでに人々の舌になじんでいたものだった。 「ぼくが子どもの頃は食卓に味の素やハイミーが当たり前の顔で置かれていた。家メシからしてそうなのだ。昭和30年代生まれは化調で育ったと言っても大げさではないだろう。日本中が化調に夢中だったのだ」 「ハイミー(発売当時はハイ・ミー)」は味の素よりもうま味をパワーアップさせた調味料で、1962年(昭和37)に味の素から発売された。私は昭和40年代末生まれのせいか、「化調で育った」までの実感はない。でもこのくだりを読み、そうだったのか、ブレがない町中華の濃い味の陰で「化調」の存在が少なからぬ影響を及ぼしていたのかとつながった。  最近、味の素をめぐる是非論が再燃している。表から見えなくなっていた味の素を再び日の当たるところへ引っ張り出したのは、SNSという新しいメディアの登場だった。  その矢面に立っているのが、バズレシピで有名になったSNS発の料理研究家のリュウジだろう。彼のレシピ本や動画には「うま味調味料 3振り」といったフレーズがよく出てくる。  2020年(令和2)の料理レシピ本大賞を受賞した『ひと口で人間をダメにするウマさ! リュウジ式 悪魔のレシピ』(ライツ社、2019年)では、よく使う調味料の一つとして挙げている。さらにうま味調味料に対してだけ、コンソメやだしのように風味がつかず、うま味だけを足せる「素材を活かす調味料」だとわざわざ断わっており、その言い分には一理ある。 うま味調味料をめぐるジェネレーションギャップ  おもしろいのは、1986年(昭和61)生まれのリュウジの家に味の素はなく、あまりなじみのない調味料だったと語っていることだ。味の素の味を知ったのは祖父母の食卓。しかも祖父は町中華の元料理人で、その祖父から味の素の使い方を教わったという(『料理研究家のくせに「味の素」を使うのですか?』河出新書、2023年)。  またしても町中華である。 今や町中華の人気はうなぎのぼりだ。テレビ番組や雑誌でローカルな店が次々と取りあげられ、我が家の近所の店でも連日行列ができている。見てみると、並んでいる客の半数以上は若い人だ。若い世代にとって、町中華は昨今流行りの昭和レトロを体験できる空間の一つにちがいない。町中華は在りし日を懐かしむ昭和生まれだけではなく、昭和を知らない若い世代も巻き込み、ちょっとしたブームになっている。  リュウジを筆頭に若い世代の多くにとって、「化調」で味を決めた町中華の味は決して懐かしい味ではない。それは、裏を返せば先入観もないということだ。世代による距離感の違いが、うま味調味料をめぐる議論の火種を大きくしているのかもしれない。  日本のうま味の変遷を語るとき、避けては通れない調味料。まずはそこから話を始めてみよう。 第五の味覚「UMAMI」として認知されるまで  うま味は、塩味、甘味、酸味、苦味と並ぶ基本五味のうちの一つである。料理の総合的なおいしさを表す「うまみ」とは異なり、うま味物質から感じる味のことを指す。うま味は、生命維持に必要なタンパク質のありかを知らせてくれる。  代表的なうま味成分はグルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸の3つだ。  このうちグルタミン酸はタンパク質を構成する20種類のアミノ酸のなかの一つで、肉や魚、野菜、発酵食品などさまざまな食材に含まれている。イノシン酸とグアニル酸は細胞核にある核酸系の物質で、イノシン酸は肉や魚などの動物性の食材に多く含まれ、グアニル酸は乾燥したきのこに多く含まれる。  うま味は、20世紀初めに東京帝国大学博士の池田菊苗によって発見された。池田は当時から、うま味は甘味、塩味、酸味、苦味という従来の基本4味とは異なる新しい味の一つだと確信していた。だが世界では、うま味はほかの味を底上げする風味増強剤の一種だと長らく考えられてきた。  第五の味覚「UMAMI」として世界から正式に認められたのは21世紀になってからだ。1990年代終わりから味物質を感知する味覚受容体の研究が飛躍的に進展するなかで議論が活発になり、「UMAMI」は国際語として広まっていった。そして2002年、舌の味蕾にうま味受容体が存在することが証明され、晴れてうま味は独立した味の一つだと認められた。 昆布だしから生まれた「味の素」  池田がうま味成分を発見するきっかけになったのが、昆布だしだったというのは有名な話だ。当時、東京ではかつお節でだしを取るのが一般的だったが、京都出身者だった池田は日頃から昆布だしに親しんでいた。そのおいしさのもとを探り当てようと試行錯誤し、1908年(明治41)、池田は昆布からグルタミン酸というアミノ酸の一種を抽出することに成功した。  もっともグルタミン酸そのものは、1866年にドイツの化学者リットハウゼンによってすでに発見されていた。名前の由来は、リットハウゼンがこの物質を取り出す際に、小麦粉のグルテンを使ったことによる。  池田の発見の肝は、グルタミン酸を中和してグルタミン酸の塩にすると、強いうま味が生じることを突きとめたことだ。グルタミン酸自体は酸性で、舐めても酸っぱくておいしくない。しかし、水に溶かして中和すると、好ましい味になる。池田はこの味を「うま味」と命名した。  さらに池田は、鈴木製薬所(現・味の素)の二代鈴木三郎助の協力を得て、調味料の開発に着手する。グルタミン酸を中和する実験を行い、なかでも水に溶けやすく、扱いやすかったのがグルタミン酸ナトリウム(MSG)だった。こうして翌1909年(明治42)、商品化にこぎ着けたのが「味の素」である。 新しい調味料の開発を目的としていたうま味研究  池田が研究を始めた動機は、国民の栄養状況を改善したいという思いだった。日本初の医学博士である三宅秀が唱えた「佳味(かみ)は消化を促進する」という説を目にした池田は、「佳良にして廉価なる調味料を造り出し滋養に富める粗食を美味ならしむること」がその一助になると考えたと後年振り返っている。研究の最終的なゴールは、昆布のおいしさを活用した調味料をつくることに最初から設定されていたのだ。  日本はその後も、うま味の研究を牽引していった。その際に手がかりとなったのは、やっぱり、だしだった。  1913年(大正2)、池田の研究生だった小玉新太郎によって、かつお節のうま味成分がイノシン酸に起因することが解明された。さらに1957年(昭和32)、ヤマサ醤油研究所の国中明はイノシン酸を研究する過程で、グアニル酸の塩にも強いうま味があることを発見。のちに武田製薬工業食品研究所の中島宣郎によって、干ししいたけのうま味成分がグアニル酸であることも特定されている。  また国中らは、アミノ酸系のグルタミン酸と、核酸系のイノシン酸やグアニル酸を組み合わせると、飛躍的にうま味が増す「うま味の相乗効果」が生まれることも明らかにした。つまり、昆布とかつおの合わせだしは、理に適った方法だったことが判明したのだ。 脂肪分が足りない淡白な日本食だからだしが発展した  昆布、かつお節、干ししいたけ。日本でだしとして使われてきた食材から、次々とうま味が発見されたのはなぜか。  その理由は、日本の食生活が野菜や穀類を中心に、魚や大豆製品などのタンパク質が加わった淡白なものだったからだといわれている。  味覚研究で知られる栄養化学者の伏木亨は、料理のコクを生み出す3要素として「糖と脂肪とダシのうま味」を挙げる。長く輸入に頼っていた砂糖が庶民の口に入るようになったのは江戸時代後期のことだ。肉類や乳製品、油脂といった脂肪分とも長く縁遠かった。淡白な食事のもの足りなさを補うにはうま味が欠かせなかったのだ。  グルタミン酸を豊富に含む醤油やみそと同様に、だしもまたうま味を加えるための解の一つだった。池田はそのだしをさらに進化させ、手軽にひとさじで料理にプラスできるようにしたのだった。 大正時代に流れた「原料は蛇」というデマ  池田の高い志によって誕生した味の素だったが、最初から手放しで受け入れられたわけではなかった。  販売が軌道に乗り始めた大正時代、「原料が蛇である」というデマが流れ、新聞広告に「原料は小麦」「原料は小麦の蛋白質」といちいち明記しなければいけない事態に見舞われた。公式サイトの「味の素グループの100年史」では、デマの原因を「古くから日本の各地には、蛇が珍味をもたらすという伝説が存在していたので、これが『味の素』と結びついたという説もある」と推測している。  あまりに簡単においしくなるために、これには何か裏があるのではないかといぶかるほど、当時の人々が驚いたことの証左かもしれない。味の素論争はすでにこの頃から始まっていたのである。  だが、1927年(昭和2)に宮内省御用達になった頃には、類似品が出回るほど広まっていた。戦中から戦後にかけて生産は一時ストップするも、高度成長期を迎え、業界は再び発展を遂げる。  その背景には技術革新もあった。1956年(昭和31)、協和発酵工業(現・協和キリン)が、微生物を利用してグルタミン酸を製造する直接発酵法を確立。コストを抑えて大量生産できるようになった。また、先にふれた国中らの「うま味の相乗効果」の発見によって、グルタミン酸とイノシン酸を掛け合わせた商品も複数のメーカーから登場した。味の素よりうま味の強いハイミーもその一つだ。 料理本のレシピにも当たり前のように登場したうま味調味料  当時の料理本には、うま味調味料がかなりの頻度で登場している。  たとえば、ハイカラな西洋料理に定評があった料理研究家の草分け、江上トミが著した『私の料理 日本料理』(柴田書店、1956年)では、吸いものの汁に「旭味(あさひあじ)少々」が出てくる。旭味は旭化成工業(現・旭化成)が手がけていたブランドだ(現在は販売終了)。そのほか煮しめや大根の煮なますなどの煮ものや酢飯など、旭味はちょこちょこ登場する。  同じく料理研究家の第一人者である辰巳浜子著『手しおにかけた私の料理』(婦人之友社、1960年)を見ると、こちらは味の素派だ。  小アジの酢のものに使う三杯酢のレシピには、コップ半杯の酢に対し、味の素小さじ半杯を入れるようになっている。ほかにも汁ものや魚の照り焼き、なすの副菜、天つゆなど、さまざまなレシピに味の素は使われている。材料表の最後に「味の素」とだけ記され、分量の指示がないレシピが多いところを見るに、味の調整役として適宜入れることを想定していたと考えられる。  しかし、1992年(平成4)に復刻された『手しおにかけた私の料理 辰巳芳子がつたえる母の味』(婦人之友社)をみると、随所に登場していた味の素はすべて削除されていた。  再編集を手がけたのは、辰巳浜子の娘で同じく料理研究家になった辰巳芳子だ。本の冒頭には「時代の推移により、素材の状況も、それを扱う人々の状況もかわりました」と、時代の変化を踏まえて改変したことが断ってある。推測するに、味の素の記述をざっくり削除したのもその一環なのだろう。
こういう人いるわ…エレベーターで「不適切発言」に遭遇する確率を突き止めた「悪趣味」すぎる研究とは?
こういう人いるわ…エレベーターで「不適切発言」に遭遇する確率を突き止めた「悪趣味」すぎる研究とは? ※写真はイメージです(gettyimages)   「悪口」はどこまで許される? 「ここだけの話」のセーフ/アウトの境界線は? イトモス研究所所長の小倉健一氏が、身近な疑問を紐解く。  私は東京の下町、錦糸町で育った。錦糸町は東京の他の地域から、ガラが悪いと思われているような気がしている。ライバルの街はどこかというと、たぶん、赤羽や蒲田といったところではないか。今でも錦糸町、赤羽、蒲田によく出かけるが、何か街の雰囲気が似ている。  言葉づかいも、本音がむき出しにされるというか、荒っぽい人も多い。よく東京人が関西へ行くと、関西弁になってしまうと聞く。私は5年ほど関西にいたのだが、一切そんなことはなく、むしろ私の周りが東京の言葉を使うようになっていた。東京の下町の言葉は、関西弁よりもアクが強いのだろうか。  酔っ払うと「クソ」とか「くたばれ」といった言葉が口をついて出てしまう人も多い。私も気づくと罵詈雑言が止まらなくなる。そんな私であるが、最近、「クソ」という言葉に関連する面白い裁判のニュースを目にした。 「クソ」に寛容な判決  2019年12月19日、れいわ新選組共同代表の大石晃子衆院議員が、ジャーナリストの山口敬之氏に対して「クソ野郎」とXに投稿したことが名誉毀損に当たるのかが争点の裁判だ。  報道によると、東京高裁(相沢真木裁判長)は3月13日の判決公判で、次のように結論づけた。 《判決では「クソ」という言葉が直ちに人糞を意味するとは解されず「クソじじい」や「クソまじめ」、「クソ忙しい」などとののしりや強調の意味で用いられるとして「『クソ野郎』という表現は、いさささか品性に欠けるきらいがあるものの、他人に対する最大限の侮蔑表現であるのかは、疑問を差しはさまざるを得ない」とした》 《さらに「『クソ野郎』との表現部分を含む記載部分については公共性及び公益目的が認められ、前提となる事実について真実であることの証明があり、意見ないし論評としての域を逸脱したとはいえないことにも照らすと、『クソ野郎』との表現が社会通念上許される限度を超える侮辱行為に当たるまでとはいえない」とした》(3月13日、よろず〜ニュース)。  ずいぶん「クソ」という表現に対して寛容な判決が出たものである。  日常生活の中で、私たちは友人や同僚と話しているときに、ただの悪口だけでなく、時には他人の秘密を話すこともある。例えば、「あの二人、付き合ってるらしいよ」とか「あの課長、いつも上司におべっかを使ってるよね」といったことが、あちこちで話されている。ひょっとすると、「私はそんなことを話していない、証拠を見せて」と反論する人もいるかもしれない。 医師や看護師がエレベーターでポロリ  1994年に提出された、ペンシルベニア大学などによる『エレベータートーク:公共空間における不適切な発言に関する観察研究』という研究論文がある。  4人のオブザーバーが5つの病院のエレベーターに乗り、病院職員による不適切と思われる発言を聞き取り続けると言う、趣味の悪い調査ではある。この調査は非常に反響を呼んだようで、その後、多くの論文に引用されている。 《結果:片道259回のエレベータでの会話を観察した。うち36回(13.9%)の乗車で不適切な会話を耳にした。最も頻度が高かったのは、患者の秘密保持に対する違反(18件)であった》 《次に多かったのは(10件)、臨床医が自分自身について、適切なケアを提供する能力や意欲に疑問を投げかけるような発言をした場合であった。その他のコメントには、病院のケアの質について軽蔑するような発言(8件)や患者に関する軽蔑的な発言(5件)があった》 《このうち15件は医師が、10件は看護師が、残りはその他の病院職員が関与していた。これらの発言は、患者の守秘義務違反に限ったものではなく、医療従事者が避けるよう注意しなければならない様々な議論を含んでいた》 「クスリでもやってたのだろう」  エレベーターでの発言は、たとえばこうだ。「ある乗客は入院患者を“提督”と呼び、別の乗客は“X社の経営者”と表現した」「昨日は16時間働いて、家に帰ってビールを飲んだら、いつの間にかここに戻っていた。一晩中働けるとは思えない」 《エレベーターに乗っていた医師が、大金を手にするまでの時間稼ぎをしていることが明らかになったことが2度あり、彼らの主な動機が質の高い医療を提供することなのかどうか疑問が呈された。ある医師が言った。「そうだ、私はここを出る。大金を稼げるところに行くんだ。もう患者を追いかける必要はない」。別の医師はこう答えた。「給料を見るには虫眼鏡が必要だ」》 《ある看護師は、別の看護師について「昨夜はクスリでもやっていたのだろう」》《2人の病院管理者が、死亡した患者を診察するために検視官を呼ばなければならなかったのは「彼の死は病院のせいだからだ」と話し合った》  モラルが高い職業とされる医者や看護師でさえこれである。さすがにこの論文の結果もあって、注意喚起がなされた状態にあるとはいえ、エレベーターで話をしなくなっただけで、本音はこのあたりにあるということだろう。内輪の飲み会などでは同様の会話をしているのは間違いない。  これはあらゆる人々にも言えることだ。こうした悪口や秘密の暴露は、たとえば友人同士の会、職場の飲み会などではどこまで許されるのか。 有料サロンなら何を言ってもOK?→弁護士の見解は  つい先日、動画配信に力を入れている元有名経営者が「ヤバいことは有料サロンでやることにしています。有料サロンは内輪の飲み会と一緒で、何をいっても名誉毀損にはならない」旨、述べていた。  こんな話は初耳だったのでビックリしてしまったが、果たして本当なのだろうか。ネット上の誹謗中傷問題等に詳しい城南中央法律事務所(東京都大田区)の野澤隆弁護士に見解を求めた。 「『有料サロンであればどんな話をしてもいい』といった理屈は、裁判所では通じません。オフレコだったなどといった主張は受け入れられず、伝播可能性(不特定多数の者に対し情報が伝わる可能性)が重視される結果、民事・刑事両分野で名誉毀損が成立します」 「とはいえ、民事裁判分野で懲罰的な賠償を認める制度は日本では存在しておらず、名誉毀損の証明は難度が高く手間もかかるため、慰謝料請求等する人が少ないのが実情です。刑事裁判分野でも、警察段階で被害者の提出書類などがそもそも受理されないことや、受理されたとしても検察段階で起訴猶予になるケースはよくあります」 「結局、無料で誰でもアクセスできるYouTubeの動画などと比較すると、参加人数がそれなりに制限された有料サロンでの誹謗中傷行為が表面化することはあまりなく、特に被害者が政治家、芸能人、大企業経営者のような公人・準公人の立場にある方の場合、『有名税』として我慢を強いられていることも多いだろうと思われます」 飲み会での悪口もダメ?  それでは、仲間同士のコンパや職場の飲み会などで、悪口や暴露話をするのはどうだろうか。野澤隆弁護士はこう解説する。 「フランスの哲学者パスカルの名言に『人間は考える葦(あし)である』という言葉があります。葦とは川辺に生えている長くて細い植物であり、転じて『人間とは物理的には弱いが思考力を持つ個人である』といった意味です」 「この例えは、聖書で、葦が『集団で揺れるしかないか弱い植物』として描かれていたことが背景にありますが、人間とは愚かであり、仲間内でお酒も入るストレス発散の場となればその傾向は一層強まります」 「昭和の会社では、偉い立場の人が『今日は無礼講(ぶれいこう)だ』などといった(建前かもしれない)発言を宴席でよくしていましたが、令和のネット社会では『あの発言はパワハラ・セクハラ事件発生の重大原因だった』などとSNS上で糾弾されかねません」 「江戸時代最強のインフルエンサー松尾芭蕉の名句に『物言えば唇寒し秋の風』というものがあります。余計な発言はいつの時代も大炎上の原因だったようです」  エレベーターに他人がいるのに悪口をいうのは避けたいところだが、仲間内しかいなければ止まらないよな、と思う。酔っ払って他人への悪口が言えないというのでは、偉くなるというのも考えものだ。
幸せなビリオネアになる秘訣は「本気で愚痴れる友人を3人以上持つ」こと。彼らが「孤独は不幸の最大の種」だと断言する理由
幸せなビリオネアになる秘訣は「本気で愚痴れる友人を3人以上持つ」こと。彼らが「孤独は不幸の最大の種」だと断言する理由 ※写真はイメージです。本文とは関係ありません(Jupiterimages / Gettyimages)  周囲に、あなたの時間・エネルギー・タイミングを奪う人はいないだろうか? 90万部を突破した人気シリーズ『頭に来てもアホとは戦うな! 賢者の反撃編』から、理不尽で不愉快な存在との対処法を一部抜粋で解説する。 愚痴れる友人を最低3人は持て  アホとの付き合いでは、まともにとりあわず、受け流すことが重要だ。しかし、日常的にアホとやり取りをしていると、ストレスがおりのように心に溜まる。  そんなときには、信頼できる友人を頼るのも一案だ。  スーパービリオネアたちから聞いた、とてもいい話を一つシェアしたい。「幸せなビリオネアになれる秘訣」として彼らがそこで真っ先にあげていたのが「Bad day(自分が最もつらい時)に本気で弱音を吐ける・愚痴れる友達を3人以上持っている」ということだった。彼らにしてもBad day はあるのだが、「ほとんどの資産家が弱音を吐ける相手を持たない」らしい。それはそうだろう。相手を間違えればゴシップ・スキャンダルになりかねない。  加えてある程度の年齢がいった男性資産家の場合「男は黙って……」「男子たるもの……」と演歌の世界のような不文律があり、自分をさらに孤独へと追いやる。  だから、スーパービリオネアは「聞いてくれる人がいるだけでどれだけ助かるか! 孤独は不幸の最大の種だ」と言うのだ。凄い実績のある人たちが言うからこそ、心にしみた話だった。本当の愚痴をシェアできる人は、簡単には現われない。次のような条件が必要だからだ。 ・付き合いが長く信用できる ・経験が似ていて共感し合える ・できれば好不調の波が重ならない  長い間、気がおけない関係性を築いた友人と居れば、リラックスができる。共感は心の栄養剤だ。また、好調な人物は心に余裕があり、不調な者の悩みや愚痴をドンと受け止めることができる。お互い、不調な時に、頼れるという安心感があれば、連絡がとりやすい。  嫌なことを溜め込まずに口にできる友人は、アホと付き合うストレスを軽減し、アホとも冷静な付き合いをするための助けとなる。 田村耕太郎『頭にきてもアホとは戦うな 賢者の反撃編』(朝日新聞出版)>>書籍の詳細はこちら 自分の人生がど真ん中にあればアホなど気にならない  You can be just you.(あなたにはあなた自身でいられる権利がある)  娘が通う学校の哲学だ。入学希望者が後をたたず難関校だが、通う子供たちにはエリートっぽさが全くない。卒業生は皆世界中の名門大学に入る子が多いが、それは結果論。この学校の人気は冒頭の哲学があるからだと思う。 「自分らしくあること」や「誰かに期待される人生を生きるのではなく自分の人生の扉を自分で開けていくこと」が最重視されている。もちろん、学校教育だけでなく、公私を問わず人生の中で心に刻んでおくべきメッセージだ。  なぜなら、自分の人生をもっとも大事にし、その目的に向かって突き進むことで、心がぶれずにアホへの対応ができるからだ。  他人の期待に応えることを最大の目標にした場合、そのために自分の意見を抑えつけ、自分自身を殺す人生となってしまい、アホにも簡単に心をやられる。そうではなく、自分自身を大事にし、自分のために掲げた目標を達成することを第一にしよう。そうすることで、最大のパフォーマンスができるように、自分を解放できる。  もちろん、自己中心的になり過ぎてはいけない。時には、困っている人を救い(娘の学校では「生態系を守ること」にも重きを置いている)ながらも、自分は自分であるとして、「他人と比較しない」「誰かの期待のためだけに人生を生きない」ことを大切にして生きる。目的さえ正しくもっていたら、それが世界の課題を解決する道にもつながるはずだ。  人生100年時代、組織のために自分を犠牲にしても忠誠心をみせるために自分を殺し周りに合わせ続けても、テクノロジーの進化や国際的な競争激化が続くかぎり、その組織があなたの人生の終わりまで生活を保障してくれる時代ではない。  どこかでその組織から放り出される。自分で道を切り開いていかないといけない時がくる。  そのときには、自分がどういう人間で何ができるのか、何をしているときに心から幸せを感じるのかを自分と向き合い考えなければならない。  何事も遅すぎることはないが、自分と向き合うのは早い方がいい。自分の人生を中心におき、そのためにすべきことを考え抜くことで、アホの存在など気にならなくなるはずだ。
大谷は英語ペラペラ? 終わらない日本人の英語呪縛 ミッツ・マングローブ
大谷は英語ペラペラ? 終わらない日本人の英語呪縛 ミッツ・マングローブ ミッツ・マングローブ    ドラァグクイーンとしてデビューし、テレビなどで活躍中のミッツ・マングローブさんの連載「今週のお務め」。32回目のテーマは「マッチョな欧米人と、たくましい女性車掌」について。 *   *   *  コロナも落ち着き、この春は外国人観光客でごった返している日本列島。東京駅から大阪方面への新幹線に乗る時など、亡命かと思うぐらい大量のトランクを持って移動する外国人たちに行く手を阻まれることも少なくありません。  今年は特に欧米系のツーリストが目立ちます。私が子供の頃は、首からコンパクトカメラをぶら下げ、ルーヴル美術館のモナ・リザや大英博物館のミイラに向かって、お構いなしにフラッシュを焚く日本人旅行客の姿というのが、「経済大国日本」の象徴でしたが、今や形勢は完全に逆転しました。    先日乗った新幹線では、30代前半とおぼしき欧米人4人組(男2・女2)が、グリーン席を8席も買い上げて豪遊している光景に出くわしました。「自分がリザーブしている席なのだから自由に座って何が悪い?」とばかりに、前列シート(彼らの荷物置き場と化していた)のヘッドレストのさらに上部に、靴を履いたままの脚を伸ばしているではありませんか。正直申して、お行儀が良くありません。威圧感も半端ない。しかも連れの女性は、シートの座面に土足で体育座りをしている……。  水商売時代、私が客に対してキレる理由第一位は「土足でソファに乗る」でした。「足、下ろしてください」「足、下ろしなさい!」「足、下ろせって言ってんのが聞こえねえのかよ!」。外国かぶれしたOLや、アーティスト気取りの若造たちに、何度声を荒らげたことか。     【こちらも話題】 真夜中に鳴り響く爆弾魔からのメッセージ ミッツ・マングローブ https://dot.asahi.com/articles/-/206068      ちなみに、わざわざサンダルを脱いで、裸足になって、ソファにチョコンと体育座りをするお客に一度だけ遭遇したことがあります。リリー・フランキー氏でした。今から15年ぐらい前。それはそれは華奢で小さくて迷子の子供のようで、でも髪は金髪で、お行儀よくタバコを吸っていました。裸足の指には黒のマニキュアが施されており、私が「ゴスロリの役でもするんですか?」と聞いたら、「違う。ゲイのママ役」と気だるそうに答えたのが、私たちのファーストコンタクトでした。  リリーさんはその後、私たちのグループ「星屑スキャット」にいくつもの楽曲を書き下ろしてくださり、「お前らには金の匂いがする」と言ってくれる、数少ない人物のひとりです。    話を新幹線の土足欧米人に戻しましょう。前列シートのてっぺんにまで伸びた彼の脚と靴。これを見て見ぬふりをしてしまっては、何のために20年以上オカマをやってきたのだか分かりません。  品川駅に着く手前で、私は彼らが占領するエリアへ出向き、当該アフリカ系男性の座る席の横で立ち止まりました。私が好きなタイプのマッチョ黒人です。なんと言っても、その長く逞しい脚! 通路を挟んで隣に座っていた連れの黒人男性も、見事な胸筋を際立たせるタイトTシャツと、生脚解放ショートパンツをはいているではありませんか。左を向けば生脚。右下を見ても生脚。間違いなく私の天国は東海道新幹線のグリーン車両にあったのです。   【こちらも話題】 さらば昴よ 遅れてきた紅白歌手・谷村新司の功績 ミッツ・マングローブ https://dot.asahi.com/articles/-/204947      しかしここは心を鬼にして、「世直しオカマ」としての務めをまっとうしなければなりません。4本の生脚が上下左右に広がる新幹線の通路に黙って立ち尽くす厚化粧をした妙齢の日本人男性に、マッスル・ブラザーたちも怪訝な目を向けています。 「Hello, guys! Looks you are having fun, and I’m not intending to disturb your wonderful holiday. But there is one thing I dare to say. Guess what. You are just too wild and too hot for us being our neighborhood here in this compartment. Definitely for me! These legs of yours can never be bad things to watch all through my journey to Osaka. Where are you going? Kyoto? Still 2 more hours left. Do you think I can manage this heat coming out from deep inside my body? Oh no! I don’t think so.」 「どうも。お楽しみのところお邪魔するつもりではないのですが、ひとつだけよろしいかしら? お兄さん、ちょっとイケ過ぎ! ヤバ過ぎ! 同じ車両に座っている人たちもだけど、間違いなく私にとってその脚、大阪に着くまでずっと眺めていられるぐらい、最高の景色ですよ。どちらまで? 京都? じゃあ、あと2時間もこのムラムラを抱えていられるかって? 無理だと思うわ」  てなことを、ひとしきりグリーン車の通路で多少くねくねしながら芝居を打ちました。芝居といえども、私の言葉は本音です。「できれば触ってみたい」「脛に頬をすりすりしていいかしら?」などと聞くのだけは必死で抑えました。  しかし、この一世一代のオカマ芝居に、彼らはポカーンとしているだけ。途中「OK!」「Haha!」ぐらいの合いの手は入ったものの、前列シートのてっぺんにまで伸びた褐色の脚はそのまま。隣のマッチョに至っては、彼女とNintendo Switchか何かで遊び出している。「うるせえ!」「失せろボケ!」などといった反応すらなく、ただの空気と化した妙齢の日本人オカマとしては、ただその見事な褐色の生脚を舐めるように凝視するしか為す術はありませんでした。    すると、女性の車掌さんがツカツカと私たちの区画へ向かって歩いてきました。そして次の瞬間、前列のヘッドレストにまで伸ばし切っている土足の脚を「OFF! THANK YOU!」とひと言だけで払い除けて、また次の車両へと移って行ったではありませんか。  円安時代と戦う新しい「ジャパニーズ・ワーキング・レディ」の真骨頂を見た気がしました。   【こちらも話題】 ついにカラー映像!中森明菜が見せるメディア進化論 ミッツ・マングローブ https://dot.asahi.com/articles/-/219315      すごすごと私は自分の席に戻り、それでも気になるものだから、シート越しに生脚マッスルを定点観察&眼福している間に、のぞみは京都へ着きました。京都へは「一瞬しか停車しませんよ」とあれほど繰り返し英語アナウンスが流れていたのもなんのその。マッチョ黒人男性2人とその連れの女性2人は、占領していた荷物をゆっくりとシートや網棚から下ろし、中身をチェックしながら、のんびりと下車準備に取り掛かっています。  しかしながら、新幹線はすでにこの時、京都駅のホームに停止し、ドアも開き、発車ベルも鳴りまくっているのです。 「1分でも1秒でも、この筋肉が拝めるのだったら、いっそのこと降り遅れてしまえばいいのに……。そうしたら新大阪で京都への戻り方を手取り足取り親切に教えてあげられるのに……」と願っていたところ、先ほどの女性車掌が再び凄い形相で走ってきました。ちんたら荷物を何往復もかけて出口まで運ぼうとしている彼らに向かって、結構なキツメのトーンで「OFF!  OFF!」と声に出すだけでなく、「シッ!シッ! あっち行け!」のジェスチャーをしているではないですか。なんて逞しい。そして、彼女の「シッ!シッ!」に急き立てられるように、這々の体でマッチョ欧米人たちは、大量のトランクやリュックと共に、京都駅のホームに無事放出されました。    これもまた、世界における「日本の立場」のひとつなのでしょう。一目欧米人と分かれば、つい拙い英語で親切にしたくなってしまう日本人のやさしさは、裏を返せば日本人の弱さ、卑屈さ、劣等感でしかありません。  戦争が終わって来年で80年。こと英語に対する日本人のコンプレックスは何も成長していないように感じます。大谷翔平選手がちょっと英語でインタビューに答えただけで「すごい! ペラペラ!」と囃し立てる。この風潮は、日本の英語教育の根底にある「英語=すごい」という刷り込み以外のなにものでもありません。  他言語の会話力を表す際に、今も「ペラペラ/ベラベラ」といったオノマトペを使い続けているのも日本ならではです。   【こちらも話題】 ドジャース大谷誕生記念! どこよりも早いロサンゼルス紀行 ミッツ・マングローブ https://dot.asahi.com/articles/-/209034     「専属通訳がいなくなったからといって、アメリカでの生活や仕事には問題ない」と信じ込みたいのか、ここへ来て突然「大谷、英語ペラペラ説」を唱え出す人たちが続出している模様。片言の英語を喋る大谷選手を見て、「英語ペラペラじゃん! マジすごい!」などと沸き立っているネット民は、おそらく「ロサンゼルス」もまともに発音できないような人たちなんだろうな……というのが私の勝手なイメージです。  不況とコロナと円安で、日本は経済レベルや生活レベルはおろか、ここへ来て知的レベルまでもがだいぶ停滞している感は否めません。  日本人はいつになったら「英語の呪縛」から解き放たれるのか。「英語さえ喋れれば、世界中の人とコミュニケーションが取れる!」と言いますが、日本のオカマ精神を持って流暢な英語で立ち向かったところで、脚ひとつ動かしてもらえないのが関の山です。  私も次に行儀の悪い欧米人を見かけたら、見劣りしない体格と、オカマ稼業で培った威圧感で勝負したいと思います。新幹線の女性車掌さんを見習って、媚びへつらってまで土足文化の懐に入る必要などありません。  あと、今になって「水原一平の英語力」を疑問視し出す人たち。その疑問を英語で呈するのであればまだしも、ちょっと見苦しいからおやめになった方がよろしいかと。負け犬の遠吠えじゃあるまいし。見苦しいですよ。   ミッツ・マングローブ/1975年、横浜市生まれ。慶應義塾大学卒業後、英国留学を経て2000年にドラァグクイーンとしてデビュー。現在「スポーツ酒場~語り亭~」「5時に夢中!」などのテレビ番組に出演中。音楽ユニット「星屑スキャット」としても活動する 【こちらもチェック!】 ミッツ・マングローブさんのコラム「今週のお務め」「アイドルを性せ!」はこちら!        
足の不自由な息子のために「仕方なく」始めたPTA役員 つながりも理解も広がり今では「役員常連」に
足の不自由な息子のために「仕方なく」始めたPTA役員 つながりも理解も広がり今では「役員常連」に 子どもたちが通う学校でもPTA活動にさまざまなご意見がありますが、1度経験した方が「楽しかったから」と何度も立候補してくださることもあります。写真は年度末に役員の方にお配りしたお菓子です。最後の会議はお菓子を食べながら和やかに終わりました(撮影/江利川ちひろ)   「インクルーシブ」「インクルージョン」という言葉を知っていますか? 障害や多様性を排除するのではなく、「共生していく」という意味です。自身も障害のある子どもを持ち、滞在先のハワイでインクルーシブ教育に出合った江利川ちひろさんが、インクルーシブ教育の大切さや日本での課題を伝えます。 * * *  4月後半になりました。この時期、多くの学校では新年度最初の保護者懇談会などでPTA役員を決めると思います。私は高3の次女と高2の息子が通う幼稚園から高校までの一貫校で、昨年度からPTA会長をしています。コロナ禍でPTA活動はかなり縮小されましたが、このままこのつながりをなくしてしまうのはもったいないと思い、立候補しました。そして私個人としては、PTA活動で関わった先生や保護者の方々に我が家の障害のある子どもたちのことを知ってもらう機会がたくさんあり、そのたびに理解を示してくださる方が増えたというメリットもありました。  今回はPTA活動について書いてみようと思います。 はじめは「仕方なく」  私が最初にPTA役員になったのは、次女が幼稚園の年中の時でした。この年は、足が不自由な息子の幼稚園探しの真っただ中で、自分が少しでも幼稚園に関わることで息子のことを知ってもらう機会が増えるのではないかと思い、立候補したのです。  正直、はじめはまったく前向きではありませんでした。「息子のために仕方なく」という気持ちが大きかったと思います。特にここはPTA活動が盛んなことで有名な学校です。双子の長女は医療的ケアが必要な重症心身障害児のため、幼稚園ではなく児童発達支援センターへ通っており、さらに3歳3カ月の息子もいて、どのくらい慌ただしい生活になるのかとても不安でした。  ところが実際にPTA活動をしてみると、どんどん親しい友人ができ、私自身も幼稚園へ行くことが楽しくなりました。出産してから数年間子どもたちの通院やリハビリがメインの生活をしていたため、家族以外の人とゆっくり話すこともとても新鮮でした。小さく生まれた我が家の子どもたちは身体が弱く、当時はたびたび肺炎を起こして入院していましたが、活動に参加できなくなくても責められるどころか本気で心配してくれました。こうした「つながり」から保護者の輪が広がり、学校に協力しようと思う流れをつくっていくことがPTA活動の一番の意味なのではないかと思います。  その後、次女と息子はこの学校で小学生になり中学生になり、現在は高校生になりました。2人の節目の学年でそれぞれPTA役員をしてきたことにより、イベントを身近に感じ、先生たちとの距離も近くなりました。この学校で足が不自由な子どもを受け入れたのは息子が初めてです。学校に行く機会が増えることにより、たまたま校庭で体育の授業をしているところに遭遇したり、移動教室で荷物を持って階段を上っているところを見かけて安心したりできたのも役員の“特権”だと思っています。 持続可能な活動に  私が長年PTA役員をしているのは、息子を育ててくださっている学校への感謝の気持ちが大きいのも事実ですが、何よりも「一度経験してみたら楽しかった」ことが最大の理由です。役員を引き受けることに負担を感じなくなったのです。  近年、新学期になるとPTAに関する記事を見かけることがありますが、PTA活動は悪いことばかりではありません。一方で、共働き世帯が増える中、平日の活動に参加できない方が多い現状もよく理解しているつもりです。我が家の子どもたちが通う学校も例外ではありません。イベント当日にスポット的な役割を増やしたりするだけでもつながりは生まれます。時代に合う持続可能な活動にシフトしていくことで、学校も活性化するのではないかと思っています。  PTA役員のすすめ。皆さまもいかがですか?  ※AERAオンライン限定記事
モノも気持ちもためこんでいた私が片づけたら、自分も夫も仕事が上向いてきた
モノも気持ちもためこんでいた私が片づけたら、自分も夫も仕事が上向いてきた ダイニングから和室はいつもモノでいっぱい/ビフォー    5000件に及ぶ片づけ相談の経験と心理学をもとに作り上げたオリジナルメソッドで、汚部屋に悩む女性たちの「片づけの習慣化」をサポートする西崎彩智(にしざき・さち)さん。募集のたびに満員御礼の講座「家庭力アッププロジェクト®」を主宰する彼女が、片づけられない女性たちのヨモヤマ話や奮闘記を交えながら、リバウンドしない片づけの考え方をお伝えします。 case.70 片づけで変わった自分の意識  夫+子ども3人+義両親/鍼灸師  部屋はその人の心の状態を表す、といいます。散らかっているときは、何かよくないことを心に抱えているのかもしれません。心がそのような状態のときは、日常生活や仕事にも影響があるパターンが多いように思います。  イライラして家族に当たってしまったり、仕事で失敗してしまったり……。何が悪いのか原因はよくわからないけれど、すべてうまくいかないということは多くの人が経験されているのではないでしょうか。 現状を大きく変えるために、心の状態を整えたい。 そう思うなら、まずは部屋を見直してみることをおすすめします。一つのきっかけになると思いますよ。  ひとみさんは、まず家の中のごちゃごちゃをどうにかしたいとお悩みでした。もともと片づけは苦手で、家族7人で暮らす家はモノが多め。頑張って片づけても、すぐに元に戻ってしまいました。  子どもが増えるとモノも増えて、床に出しっぱなしになっている状態が当たり前。夫が思い描くような、生活空間にモノがなくスッキリしている海外の家とは程遠い状態でした。同居している義両親は何も言わないけれど、「きっと散らかっていることを気にしているだろうな」と一人で思い込んでモヤモヤする毎日。  昨年の春に実家をたたむことになり、取り急ぎ実家の荷物を自分の家に持ってくることになると、モノの量はさらに増加。どう片づければいいかわからないと途方に暮れているときに、家庭力アッププロジェクト®と出会いました。 スッキリした夫自慢の一枚板のテーブルが輝いて見えます/アフター   「片づけのマニュアル本を買ってみたこともありました。でも、とにかく早くなんとかしたいと思って、参加を決めたんです。片づけないと日常がスタートしないという現状を変えたかった」  ひとみさんは、散らかった自分の家に目が慣れていて“風景”のようになっていました。片づけを始めると、まずは家の状態を客観視して膨大な量のモノと向き合い、すべての置き場所を一つずつ決めていきました。  自分の仕事のほか、夫が営む農業のお手伝いもしているひとみさん。経営が傾いている時期が続き、いろいろと手伝う作業も多くて片づけの時間を確保することが難しいときでした。  それでも、やり遂げると決心した通り、隙間時間も使って毎日少しでも片づけを進めました。夫にも「一緒に片づけよう」と声をかけると、自分のモノを手放したり、お互いに片づけたことをほめ合ったり、協力してくれるようになりました。ときには「こうした方がいいんじゃない?」と意見を出し合うことも。 「夫と私は『心地よい環境で暮らしたい』という気持ちがベースにあったので、それに向かって2人でポジティブに片づけられました」  家の中がきれいになっていくと、ひとみさんと夫の仕事にも変化が表れます。 「夫の仕事の関係で新しいビジネスの話が出てきたり、サポートしてくださる方が現れたり、いい方向に向かい始めたんです。私自身も、鍼灸師の知識と経験を活かしてオンラインセミナーを開いてみたら、友人がすごく協力してくれて50人以上集まってくれました」  片づけと仕事は、一見するとまったく異なることのように思えます。でも、片づけで自分の意識が変わったことが、仕事にも影響しているとひとみさんは言います。 「仕事で何かあっても、自分で何とかしようと思ってため込んできました。家のモノも一緒ですよね。でも結局どうにもできなかった。今は解決するべきことが明確になって、人に素直にSOSを出せます。この人に聞いてダメならこうしよう、という次の策も考えられます。片づけを通して、目的意識を持って実際に行動するということができるようになりました」 作業するスペースがないほど散らかったアイランドキッチン/ビフォー    これは一緒に片づけをしていた夫も自身に感じていた変化とのこと。さらに、時間の使い方も変わりました。 「ムダな時間の使い方が減りました。必要なことにフォーカスして動くと、未来の自分のためにも時間ができる。時間もお金もいい流れができ始めています」  プロジェクトが終わるころには、家の床に置かれているモノはなくなり、夫婦で目指していた心地よい環境になっていました。でも、これからも実家のモノや夫の作業場など、まだまだ片づけは続くそうです。 「片づけたいところはたくさんあるんです。ゴールとやるべきことはわかっているので、行動するのみですね」  かつては「片づけ方がわからない」と悩んでいましたが、それが解消された今は悩む時間やストレスもなくなったようです。 片づけが習慣化できて、いつでもリセットできるように/アフター   「40歳は不惑の年なんていいますけど、40代って家族やビジネスの面でも『大丈夫かな』って一度立ち止まる年齢だと思うんです。私の場合、そのときに片づけという大きな“しこり”のようなものがありました。思い切って行動するとそれがなくなり、いい方向に変わることもあるんですね」  きれいになった家は、今のひとみさんの心の状態。「片づけられない」というコンプレックスがなくなり、ちゃんとできた自分をほめることで片づけが習慣化できていると言います。 仕事と育児をしながら7人で暮らす家を片づけるという、大変なことも笑顔で話してくれたひとみさん。 スッキリした顔からは、今まで抱え込んでいた大きな悩みがなくなり、もう次のゴールに向かって動き始めている様子がうかがえました。 西崎彩智(にしざき・さち)/1967年生まれ。お片づけ習慣化コンサルタント、Homeport 代表取締役。片づけ・自分の人生・家族間コミュニケーションを軸に、ママたちが自分らしくご機嫌な毎日を送るための「家庭力アッププロジェクト?」や、子どもたちが片づけを通して”生きる力”を養える「親子deお片づけ」を主宰。NHKカルチャー講師。「片づけを教育に」と学校、塾等で講演・授業を展開中。テレビ、ラジオ出演ほか、メディア掲載多数。
【独占告白】「私の精子から97人子どもが生まれた」 米国人男性(33)が告発する精子バンクの実態
【独占告白】「私の精子から97人子どもが生まれた」 米国人男性(33)が告発する精子バンクの実態 インタビューに応じる ディラン・ストーン=ミラーさん。精子バンクに提供した自分の精子から、97人もの子どもが生まれた  生殖補助医療が進み、精子バンクや卵子凍結も一般的になってきた。そんななか、アメリカで学生時代に精子提供をした男性(33)の訴えが注目を集めている。自分の精子から生まれた子どもが100人近くいると知らされたのだ。 *  *  * 200人を超えているかもしれない 「2021年3月、私は自分の精子で生まれた子どもに初めて会いました。その家族は自宅から45分ほど離れたところに住んでいました。駐車場の向こう側から自分の遺伝子が半分入った子どもの姿が見えた瞬間は、非常にパワフルでビューティフルな瞬間でした」  ディラン・ストーン=ミラー(以下、敬称略)は、当時をこう振り返る。  ところが、自分の精子で生まれた子どもの数がどんどん増えていくと、喜びは精子バンクに対する怒りと苛立ちに変わっていった。2023年12月時点で、彼の子どもが少なくとも97人いることがわかっている。 「精子バンクに子どもの誕生を報告するのは40%くらいといわれているので、実際は200人を優に超えているかもしれません」  ディランは当惑したように告白し始めた。 学費のために精子提供  ディランは1990年9月、ジョージア州アトランタで生まれた。両親はどちらも博士号を持つ。父親は犯罪心理学者で、母親は名門エモリー大学の教授で専門はアメリカのアート史だ。最初の13年間は小さな私立学校に通い、高校3年生のときに家からほど近い公立学校に転校した。ジョージア州立大学では心理学を専攻し、教育研究の分野で修士号を取得すべく同大の大学院に進んだ。  精子バンクの存在を知ったのは、大学で寮生活していたときのルームメイトから。ルームメイトは週に3回、精子バンク「Xytex(ザイテックス)」に通って精子提供をしていた。ザイテックスはアトランタ、オーガスタなどジョージア州の5都市とノースカロライナ州シャーロットにある大手精子バンクだ。 「ある日、彼が『1人紹介すると300ドルのボーナスがもらえるから、関心があるなら紹介したい』と言ってきました」  紹介ボーナスは精子提供者を増やすためのザイテックスの戦略だ。ディランも学費のために、深く考えずに提供を始めた。2011年1月のことだ。 【続きはこちら】 33歳白人男性「私の精子でぼろ儲けしたのです」 子ども97人、彼の精子はなぜ「大人気」だったのか https://dot.asahi.com/articles/-/220250 2021年10月、提供した精子で生まれた4歳と1歳の男の子と(ジョージア州アトランタで、ディランさん提供)   身長の最低条件は178センチ 「本当に気軽な気持ちでした。ザイテックスに行くと簡単な質問に答え、最初に身長を測定されました。5フィート10インチ(約178センチ)が最低条件でしたが、まさに私の身長だったので、合格しました」  感染症の有無を調べるため、採血も行われた。過去5年間にアフリカ大陸に入ったことがないかとか、過去5年間に他の男性とセックスをしていないとか、条件は他にもあった。感染症には潜伏期間があるので、血液は半年間凍結してから検査するという。検査に1度合格した後も、半年ごとに血液検査が必要だった。 「性感染症の検査も含めて、ありとあらゆる健康診断を無料でしてくれたことはよかったと思います」  社会的に意義がある行為であることも説明された。 「精子バンクでは、無精子の人やシングルマザー、レズビアンなど、精子提供がないと子どもができない家族を助けることの美徳を説かれました。また、幹細胞やクリスパー遺伝子編集や疾患予防のために、精子が使われる可能性があることも言われましたが、実際にそういう研究で自分の精子が使われたエビデンスは今のところありません」 オープンIDでの提供は1回100ドル  精子提供には「匿名提供」と〈オープンID〉の2つがあったが、ディランは〈オープンID〉を選び、一回の提供で100ドルを受け取った。 〈オープンID〉を選んだ理由は2つ。ひとつは受け取る額が大きいという金銭的な理由で、もうひとつは道義的な理由だ。〈オープンID〉であれば、その精子を使って生まれた子どもが18歳になったとき、精子提供者の個人情報を知ることができる。 「子どもの出自を知る権利は重要です。子どもが成長して自分の生物学上の父親のことを知ることができない、というのは筋が通りません。だから、私は〈オープンID〉を選びました」  このとき、精子提供によって、自分の子どもが数えきれないほど誕生する未来は、想像してもいなかった。 増えていく子どもの数  大学時代は1年間以上週に3回提供し、大学院に入ってから提供を再開した。  23歳のとき、ザイテックスから「あなたの精子でどれだけ子どもが誕生したか知りたいですか」と聞かれた。「もちろんです」と答えると、「2人」と伝えられた。  翌年も全く同じ質問をされ、「8人」と言われた。  26歳になったとき、ザイテックスから血液検査やサインが必要な書類があると連絡があった。そのとき、すでに50人の子ども(女の子26人、男の子24人)が誕生していると知らされた。まさか50人とは思わず、「15(fifteen)」と聞き間違えて聞き直すと、「50(five zero)」だった。 「その50という数字を、どう咀嚼したらいいかわかりませんでした。」  2021年3月、改めてザイテックスに問い合わせると、「77人が誕生している」と言われた。彼の精子で生まれた子どもはさらに増え、2023年12月の時点で、97人にまで達している。 2022年12月、提供した精子から生まれた子どもたちと交流するディランさん(オーストラリア、シドニーで/ディランさん提供)   精子バンクの「トリッキー」な契約書  1人の男性から誕生する子どもの数について、ザイテックスの契約書はどうなっているのか。 「契約書には1人の男性の精子から生まれる子どもの数のリミットは40人とは書いていませんが、最初に私がリミットを聞いたときに、〈40ファミリーと言われたこと〉が書かれています。バンク側が責任を逃れられるトリッキーなやり方です」  ディランはザイテックスを相手に訴訟を起こそうと複数の弁護士に相談したが、成功報酬制で引き受けてくれる弁護士は見つからなかった。成功報酬であれば、勝訴した際に受け取る賠償金の3分の1を弁護士に払えばいい。だが、成功報酬でない場合、弁護費用は実際の裁判にならないとわからない。アメリカの訴訟費用はけた外れになる可能性がある。ディランは訴訟をあきらめた。  ディランは増えていく子どもの数を自分なりに理解しようとした。当時付き合っていた女性や他のドナーにも相談したが、アドバイスできる人はいなかった。 子どもたちが出会う事態も  2020年、いくつかの家族から連絡を受けて初めて、自分が関わったことの重大さを理解し始めた。ザイテックスから、自分の精子がオーストラリア、カナダ、イギリス、イスラエル、中国に輸出されたことも教えられた。アメリカでは少なくとも9州にわたっている。 「イスラエル以外のそれぞれの国には、すでに子どもがいることもわかりました。中国では1人が誕生しています」  ディランの精子で生まれた子どもたちが出会う、という事態も起こり始めた。 「カナダでは同じ器械体操練習用のジムで、私の精子から誕生した子ども同士が偶然会ったことがあります。共通の友人がいた子どももいます。精子バンクから精子を買って子どもを持つには、一定のお金がかかります。社会経済的地位が同じような人は地理的にも似たようなところに住む傾向があるので、そういうことが起こります。また、レズビアンカップルが子どもを育てる場合、それが異例であるとは思われない、安心して暮らせる地域に住みます。だから最終的に同じ都市に落ち着く可能性が高いのです」 インタビューに応じるディランさん(撮影/大野和基)   どこに住んでいるのか  実際、カナダのトロントには5家族、その中には同じ近隣地区に住んでいる家族もある。  近隣地域に同じ精子から誕生した子どもがいると、将来、近親相姦や近親婚になる可能性が出てくる。イギリスでは過去、実際に起こったケースもある。 「それを避けるためにも、同じ男性から誕生した子どもを追跡する、データベースが必要だと思います。精子バンクから買った精子で生まれた人は、同じ男性から生まれた子どもが地理的にどこに住んでいるか知る必要があります」 同じ精子から生まれる子に上限は?  アメリカの多くの精子バンクはASRM(American Society for Reproductive Medicine: 米国生殖医学会)のガイドラインに従っているという。それによると適切な分布で人口80万人に対して、同じ男性の精子から生まれる子どもの数は25人までならいい、という。 「そのガイドラインが正しいなら、私の精子からアメリカで1万人の子どもが、世界中でいうと27万5千人の子どもが誕生してもいいことになります。これは明らかに道義に反します。40年前に作られたガイドラインは、現在のグローバル社会には通用しません」  リミットを設けている国もある。例えばイギリス、カナダ、オーストラリアでは10家族がリミットだ。だが、アメリカにはいまのところ、その数を規制する法律はない。つまり1人の男性の精子から生まれてくる子どもの数は無限ということになる。  1人の男性の精子から生まれる子どもの数は世界中で、「5人から10人であるべきではないか」とディランは言う。いま、彼は、ガイドラインのリミット数を適切な数に減らすよう、精子バンクを説得しようとしている。 (ジャーナリスト・大野和基)   【その2はこちら】 33歳白人男性「私の精子でぼろ儲けしたのです」 子ども97人、彼の精子はなぜ「大人気」だったのか https://dot.asahi.com/articles/-/220250  
アンジェラ・アキ 「無期限の活動休止」から10年。夢だったミュージカル音楽家として日本での活動を再開
アンジェラ・アキ 「無期限の活動休止」から10年。夢だったミュージカル音楽家として日本での活動を再開 10年ぶりに日本の音楽シーンに戻ってきたアンジェラ・アキさん  “ハーフは売れない”“28歳のデビューは遅すぎる”。長い下積みを経験し、デビュー後もがむしゃらに頑張って『手紙』という大ヒット曲を生み出したアンジェラ・アキは、なぜ無期限の活動休止を決意したのか――。その理由は、“夢”だった。10年ぶりに日本の音楽シーンに戻ってきたアンジェラ・アキさんのロングインタビューを届ける。 *   *   *  約10年ぶりに日本での活動を再開したシンガー・ソングライターのアンジェラ・アキさん。  日本人の父親とイタリア系アメリカ人の母親を持つ彼女は、2005年、28歳の誕生日の前日にシングル「HOME」でメジャーデビュー。翌年、日本武道館史上初となるピアノ弾き語りによる単独公演を行い、NHK紅白歌合戦に出場するなど、大きな成功を収めた。その後も「サクラ色」「手紙~拝啓 十五の君へ~」などのヒット曲を生み出すなど順調な活動を続けていたが、2014年に無期限活動停止を宣言。ミュージカル音楽を学ぶために渡米した。 「90年代に初めてニューヨークに行ったときに観たミュージカルがすごく印象に残っていて。ハワイで高校時代を過ごしたときにちょっとだけミュージカルに出演したこともあって、『ミュージカル音楽を作ってみたい』という夢はずっとあったんです。2000年以降のアメリカでは、ポップスとミュージカルの溝がなくなって、ミュージカル俳優のアルバムがビルボードで1位を取ることも。『私もそういう存在になりたい』という気持ちが、年を重ねるごとに強くなりました」  日本の音楽シーンで輝かしい功績を残してきたアンジェラさん。シンガー・ソングライターとしてのキャリアを中断し、リスキリングのために渡米するためには大きな決断が必要だったはず。しかし本人は「ミュージカルの作曲家を目指すためには絶対に必要だった」と語る。 「ブロードウェイのミュージカルに関わる作曲家のほとんどは専門的な音楽教育を受けているし、私のようなシンガー・ソングライターが出る幕はない。大学での勉強はミュージカル作家になるためというより、キャリアのスタート地点に立つための最低条件。日本で活動を続けながら勉強するのは無理だと思いましたし、もし日本の大学に入ったら“なんでアンジェラ・アキがここにいるの?”と先生もやりづらいじゃないですか(笑)。誰も自分のことを知らない、まったく優遇されない状況で自分を試したいという気持ちもありました」 日本での活動休止後は渡米し、南カリフォルニア大学とバークリー音楽院で音楽を学んでいたアンジェラ・アキさん   LAでは100%学生の生活  名門・南カリフォルニア大学に入学した理由は、アラニス・モリセットのプロデューサーとして知られるグレン・バラードの勧めだったとか。家族でLAに移住し、子育てをしながら「100%学生」の生活を送ったという。 「子どもが小さかったので、デイサービスを利用して、大学に通って。授業が終わったら子どもをピックアップして、家に帰ったらまた勉強という生活でしたね。大変だったけど、大人になってから勉強し直すのはすごく意味のあることだと思いました。自分自身が興味を持っていることを学ぶわけだから、苦でもなんでもないんですよ。ただ学費がすごく高かったので、少しでも元を取ろうと思って(笑)、クラスの最前列で質問しまくってました」  2年間のカリキュラムを終えたあとは、バークリー音楽院のオンライン講座を受講。音楽の勉強を継続しながら、少しずつミュージカルに関わる仕事をスタートさせた。特筆すべきはディズニーの短編ミュージカル作品「アウト・オブ・シャドウランド」。ミュージカル「ファン・ホーム」でトニー賞を受賞した作曲家ジェニーン・テソーリの楽曲に作詞家として参加したのだ。 「ジェニーンは現代のブロードウェイ・ミュージカル界のなかでも3本の指に入る作曲家。この業界で『ジェニーンと仕事をした』と言えば誰もが驚くし、『自分が進んできた方向は間違ってなかった』と思える奇跡のような出来事でした。ジェニーンとは今も関係が続いていて、新作のオープニングパーティに招待してくれることもあって。ブロードウェイのミュージカルがどのように成り立っているかを間近で見ることができたのもすごく良い経験となりました。日本に比べたら、ミュージカルの世界で仕事をしている女性の数も多いんですよ。もちろん女性の立場を勝ち取ってきたムーブメントの成果だし、それは今も続いていますね」 約12年ぶりとなるアルバム「アンジェラ・アキsings 『この世界の⽚隅に』」   「この世界の片隅に」で日本での活動を再開  そして昨年、2024年5月から日本各地で上演されるミュージカル作品「この世界の片隅に」(原作マンガ:こうの史代)の音楽を担当することを発表。10年ぶりに日本での活動を再開させた。太平洋戦争末期の呉を舞台に、大きな時代の流れに巻き込まれながら、必死で日常を生きる人々を描いた「この世界の片隅に」は、2016年にアニメ映画化され大ヒットを記録した。 「もともと原作の漫画が大好きで、映画も観ていて。この作品をミュージカルにするのなら、ぜひ参加したいと思いました。私は昭和生まれの昭和育ちで、自然が豊かな徳島の出身。『この世界の片隅に』で描かれている風景や状況も、自分の琴線に触れるんですよね。背景には太平洋戦争があるし、単なる人情話とはまったく違うんですけど、作品の世界に共感できたことはすごく大きかったです」  ミュージカル「この世界の片隅に」のために約2年間で30曲近い楽曲を制作したというアンジェラさん。アメリカで発展したミュージカル音楽への深い理解、そして、日本の原風景に対する共感。アメリカと日本という二つのルーツを持つ彼女がこの作品に関わったのは必然だったと言えるだろう。 「アメリカのスタッフと仕事をしていても、“不思議なバックグランドですね”とよく言われます。英語が話せるから普通に溶け込んでいるんですけど、中身は日本人、徳島人だから、仕草や言葉遣いがアメリカの人たちとちょっと違うんですよね。それが自分の強みになればいいなと思っています。たとえば、“ピクサーが日本を題材にした映画を作る”ということになったとして、“だったら音楽はアンジェラだよね”と結びつくような音楽家になりたいんですよね」  ミュージカルの開幕に先がけ、4月にアルバム「アンジェラ・アキsings『この世界の片隅に』」を発表。彼女のボーカルアルバムは、じつに12年ぶりとなる。 「ここ数年、シンガー・ソングライターがミュージカル音楽を担当して、その曲を自分でも歌うことが増えているんです。『この世界の片隅に』の音楽を作らせてもらって、すごくいいものが出来たという自信もあるし、舞台を見る前後に聴いてもらえるアルバムを作りたいなと思ったんですよね。ただこの10数年、歌のトレーニングはほとんどやっていないんですよ。デモ音源のために歌うことはあっても、人前で歌ったり、レコーディングもやってなくて。でも、いざ歌ってみたら10年経っている感じはしなかったし、すごく楽しかったですね」  前述した通り、シンガー・ソングライターとしてのキャリアを中断し、ミュージカル音楽家になる勉強のために渡米したアンジェラさん。それは彼女自身が思い描く音楽人生を送るために必要な行動だったのだが、この10数年の時間は彼女の価値観や人生観にも大きな影響を与えた。その変化は歌の表現にも表れているようだ。 「私はデビュー前の下積みが10年あって、メジャーデビュー後もがむしゃらに歌い続けていたんです。“こうあるべき”と自分で設定した目標に向かって走り続けて、それを達成するために曲を作って、ライブをやって……。“ハーフは売れない”“28歳のデビューは遅すぎる”みたいなことも言われたし、“そんなことはない”と必死にもがいていたんです。でも、今の私にはもう何かを証明する必要がなくて。肩の力も抜けているし、“この瞬間を楽しもう”と思えるようになったんですよね」  歌うことを楽しめるようになったというアンジェラさん。YouTubeチャンネル「THE FIRST TAKE」で代表曲「手紙~拝啓 十五の君へ~」を歌唱したときも、自らの変化を実感したという。 「カメラの前で歌うなんて本当に久しぶりだったし、紅白のときよりも緊張したけど、そのなかでも楽しめている自分がいて。動画を見てくれた人から“歌い方が変わったよね”と言われるんですけど、もしそうだとしたら、歌うことを楽しめるようになったことが大きいんじゃないかな。『手紙』が今もたくさんの人に聴いてもらえていることを実感できたのも嬉しかったです」 「手紙~拝啓 十五の君へ~」は、“拝啓 この手紙読んでいるあなたは どこで何をしているのだろう”という歌詞ではじまる。1番が“15歳の自分から大人の自分に宛てた手紙”、2番は“大人になった自分が15歳のあなたに宛てた手紙”という形式で構成されたこの曲は、今も多くの人々の心の拠り所になっている。 「THE FIRST TAKEで『手紙~』を披露した後、たくさんの人がコメントを書いてくれて。『10代のときは本当につらくて、生きてるだけで精一杯だったけど、今は子供が二人いて笑顔で過ごしています。あの頃の自分に“大人になったら、生きててよかったと思えるよ”と言ってあげたい』みたいなコメントがすごく多かったんですよ。それを読んでいるときに『私もそうだ』と思ったんですよね。メジャーデビューしたばかりの自分、『手紙~』を書いたときの自分に『よくがんばったね』って言ってあげたいし、抱きしめてあげたいなって」  アルバム「アンジェラ・アキsings『この世界の片隅に』」に収録された「この世界のあちこちに」は、主人公のすずをはじめ、自分の居場所を探し続ける登場人物たちの心情に寄り添って書かれた曲だという。あくまでの作品のために制作された楽曲だが、〈どんな場所もどんな人も居場所があるんだ〉という一節は、彼女自身の軌跡とも重なって聴こえる。 「40代になっても居場所を探している自分がいますからね。たぶん、それはずっと続くんじゃないかな。有名な音楽番組に出る、ランキングで上位に入ることで自分を証明しようとしてたところがあったけど、それよりも人とのつながり、会話のなかに生まれる温かさ、そのなかで自分がどういうふうに成長できるかが大切。そのなかで作品を作っていきたいなと今は思っています」 (取材・文/森朋之) アンジェラ・アキ/シンガー・ソングライター、ミュージカル⾳楽作家。⽇本⼈の⽗親とイタリア系アメリカ⼈の⺟親との間に⽣まれる。2005年にシングル「HOME」でメジャー・デビュー。2008年には、「NHK全国学校⾳楽コンクール中学⽣の部」の課題曲に書き下ろされたシングル「⼿紙 〜拝啓 ⼗五の君へ〜」がプラチナディスクを獲得。世代を超えた⼤ヒットロングセラーとなる。2014年、8⽉に⾏われた⽇本武道館での公演をもって、シンガー・ソングライターとしての、⽇本での無期限活動停⽌に⼊った後、渡⽶。以前からの⽬標であったミュージカル作品の制作の為に⾳楽を⼀から学び直す。2017年、ウォルト・ディズニーの短編ミュージカル作品「アウト・オブ・シャドウランド」制作に作詞家として参加。東京ディズニー・シーのハンガーステージで公開され、ミュージカル⾳楽作家としての⼀歩を踏み出す。その後、ブロードウェイ作品のプロジェクトにも関わり始める。2023年には、2024年5⽉から⽇本全国で上演されるミュージカル作品、『この世界の⽚隅に』の⾳楽を担当。同時に、⽇本での活動再開を発表。2024年2⽉7⽇デジタルシングル「この世界のあちこちに」をリリース。4⽉24⽇には約12年ぶりとなるアルバム「アンジェラ・アキsings 『この世界の⽚隅に』」をリリースする。
4月こそ転職活動の「始めどき」 企業が中途採用者に求めることとは?
4月こそ転職活動の「始めどき」 企業が中途採用者に求めることとは? photo iStock/courtneyk  春といえば入社式だが、実は、転職を考える人たちが活動を始めるべきタイミングでもある。  多くの企業が4月に新年度を迎える日本では、年度初めの4月と下半期がスタートする10月をめがけて、その直前の3カ月に企業の中途採用が活発化する。一方、パーソルキャリアが行った「転職に関するアンケート」(2019年3月)によると、転職した人の「平均転職活動期間」は、転職先が決まってから退職した人の場合で5.6カ月、転職先が決まる前に退職した人の場合で4.9カ月。いずれの場合も、半年近くを転職活動に費やしていることになる。  つまり、下半期を転職先で迎えたいという場合、まさに「今」が転職活動の始めどきだ、ということだ。  転職や退職を考える人たちが「今」知っておくべきことを『今さら聞けない 転職・退職の超基本』を引用しつつ、まとめておきたい。この本を監修したのは、企業と退職者(アルムナイ)の良好な関係を構築することで、中途採用の新たな選択肢を提供するベンチャー企業「ハッカズーク」だ。  まずは、「企業が中途採用者に求めること」から。 ***  厚生労働省の「転職者実態調査」によると、企業の中途採用者の採用理由は「離職者の補充」のほか、「経験を生かし即戦力になる」「専門知識・能力がある」が上位を占めている。「職場への適応力がある」ことも一定の理由として挙げられている。つまり、重視されているのは「スキル」「経験」「適応性」だということだ。  もちろん、採用対象が違えば採用基準も変わってくる。役員や幹部候補など経営にかかわる人材の採用では「実績」が基本。20代の中途採用者については、「社会人経験は求めたいが、業界・職種の経験は問わない」と回答した企業が半分以上を占めるという調査結果もあり、本人のポテンシャルが重視される場合も多い。  一方、面接担当者の多くが、「自社でともに働いてほしい」と判断する際に重要であると考えているのは、次の3つのポイントだ。 photo iStock/kyonntra 主体性がある 自分で物事を判断・決定し、それを実行していく力。物事をプラスにとらえ、問題を発見して解決していく思考力(考える力)や新しいものを創造する力、人を統率していったり相手に働きかけてまわりを巻き込んでいったりする力も必要とされる。 論理性がある 物事を論理的に考えて、正確に自分の意見を伝えたり相手の伝えたいことを把握したりする力。コミュニケーション能力として重要な会話力でもある。複雑な問題や論点についても、人と対話や議論ができる力が求められている。 協調性がある コミュニケーション能力の一部にもなるが、その会社の一員として周囲と協力しながら仕事に取り組む姿勢。仕事に前向きに熱意をもって取り組むためには、その仕事が「好き」であるかどうかということも重要になってくる。 「書類選考の段階では採用したいと思っていたが採用を見送った」、逆に「書類を見た時点ではスキルや経験が不足していると感じたが採用した」ということもよくあるという。そこで決め手となっているのは、面接での会話。書類に書かれた実績に至るまでの取り組みを聞いたり、その話しぶりを見たりする中で、「その人の人柄や仕事への向き合い方が自社とフィットするかどうか」を判断しているということだ。 (構成 生活・文化編集部 上原千穂 森 香織)
【池袋暴走事故5年】刑務所は「苦しい」と回答した飯塚幸三受刑者に松永拓也さんが思うこと 「彼の言葉を未来の糧に」
【池袋暴走事故5年】刑務所は「苦しい」と回答した飯塚幸三受刑者に松永拓也さんが思うこと 「彼の言葉を未来の糧に」 真菜さんは花が好きで、莉子ちゃんが生まれる前から、毎年一緒に花見に行ったという。松永さんは2014年の花見デートの写真を見返しながら、「俺調子乗ってるなー、真菜がかわいいからデレデレしてる」と頬をゆるめた(写真は2017年4月撮影/松永さん提供)  2019年4月19日に起きた池袋乗用車暴走事故で、松永拓也さん(37)は妻の真菜さん(当時31)と娘の莉子ちゃん(同3)を亡くした。事故から5年がたとうとする中、松永さんは昨年12月から運用が始まった「被害者等心情聴取・伝達制度」を使い、車を暴走させた飯塚幸三受刑者(92)に、事故の再発防止に向けた協力を呼びかけた。後日届いた飯塚受刑者からの回答に松永さんは何を思ったのか。現在の心境を聞いた。 *  *  * ――今年3月22日、松永さんは「被害者等心情聴取・伝達制度」を使い、飯塚受刑者への思いを口頭で刑務所職員に伝えました。今回、制度を利用した理由は何ですか?  僕の中の「真菜と莉子の命を無駄にしない」という決意は、事故から5日後くらいには固まっていて、再発防止に向けて飯塚氏とも同じ視点を持ちたいという願いは、ずっと昔からありました。  もちろん、今でも彼を許せない思いはあります。でも、後世の人に同じ思いをさせないという最終目標をかなえるためには、被害者、加害者という明確な立場の違いを乗り越える必要がある。そこに僕の個人的な感情は不要です。  人間は失敗する生き物なので、過失犯である飯塚氏に罪を償わせるだけでは、第2、第3の池袋暴走事故は必ず起きます。僕は、奪われた妻と娘の命、遺族になった自分の経験、加害者になった飯塚氏やそのご家族の苦しみ、すべてを無駄にしたくないし、それが僕自身や飯塚さんにとっても唯一の救いになるのではないかと思っています。   「被害者等心情聴取・伝達制度」を利用するにあたり、松永さんが飯塚受刑者に伝えたい内容をまとめたメモ(松永さん提供) 免許返納を進めるためには ――松永さんは飯塚受刑者に、高齢ドライバー問題についての意見や経験を問う8つの質問を投げかけ、4月6日、本人からの回答を報告する書面が届きました。各質問に込めた意図をお聞かせ下さい。(以下、〈〉内は質問と回答の要約) 〈質問1:あなたはどうすればこの事故を起こさずに済みましたか。 回答:「運転しないことが大事です。」〉 〈質問2:高齢者として、どのような社会であれば事故を起こさずに済みましたか。 回答:「運転しないことです。」〉 〈質問3:病院までの無料又は500円程度の送迎サービスなどがあれば利用しましたか。 回答:「はい。」〉  まず、すべての質問は92歳という飯塚氏の年齢を踏まえ、できるだけYES/NOで端的に答えやすいよう配慮しました。  質問1~3は、免許返納をしやすい社会を目指すための質問です。自治体によっては、免許返納した高齢者に対して、身分証として使える「運転経歴証明書」を発行したり、シルバーカーの購入費用を補助したりしていますが、まだまだ地域差は大きいし、積極的に広報されているとは言いがたいのが現状です。  飯塚氏は裁判の中で、電車は使い勝手が悪いから車を運転していたと主張しました。あの時はムカッときましたけど、たしかに地下鉄は階段やエスカレーターが多いし、高齢者が利用するには大変な面もあります。免許返納を進めるには、車がなくても安心して生活できる社会になる必要がある。高齢者自身の決断とご家族の説得に委ねきっている現状はおかしいと思います。   家族3人で暮らしたアパートで取材に応じる、松永拓也さん(撮影/写真映像部・佐藤創紀) 運転を止めたら人権侵害? 〈質問4:医師から、明確に運転を止められていたとしたら、あなたは運転をやめていましたか。 回答:「やめていました。」〉 〈質問5:事故当時、自分自身はパーキンソン病又はパーキンソン症候群の可能性があったと思っていますか。 回答:「はい。」〉 〈質問6:パーキンソン症候群が運転をしてはいけないという分類に属されているとしたら、運転をやめていましたか。 回答:「やめていました。」〉  飯塚氏は事故当時パーキンソン症候群の疑いがあると診断されていて、右足を動かしづらい症状がありました。担当医師は、体調が悪い時には運転を控えるよう伝えていたけれど、高齢者の方にも移動の自由がある以上、無理やり止めることはできません。でも、運転は人の命を奪いかねないものである以上、医学的な見地からある程度制限をかける権限や、人権侵害で訴えられないよう医師を守る制度は必要ではないかと思います。 〈質問7:家族からどんな声掛けがあれば、運転をやめようと思いましたか。 回答:「やめるように強く言われていたらやめていた。」〉 〈質問8:高齢で刑務所に入る苦しみはどのようなものですか。 回答:「(いろいろな規則や指示に)従うことが苦しい。」〉  特に高齢者の場合、自分の運転が危ないかどうか客観的に判断するのは難しいので、どうしてもご家族の介入が重要になります。どういう声がけがあれば運転をやめていたのか、当事者の声を聞きたくて、質問をしました。  8は、刑務所に入ることになった彼の苦しみを、多くの高齢者の方に知ってもらい、同じ思いをするのは嫌だなと思ってもらえたらという意図がありました。彼の言葉には、やはり重みがあると思うので。 居間の一角が、莉子ちゃんのお絵描き場だった。紙の下半分には、家族3人で手をつないでいる絵が描かれていたが、インクの経年劣化により消えてしまったという。「物ってどんどん壊れていく。それを見るのが悲しくて、おもちゃのキッチンセットなんかも泣きながら解体したんですけど、やっぱりしんどくて」(松永さん)(撮影/写真映像部・佐藤創紀) 初めて聞けた、飯塚氏の「本心」 ――飯塚受刑者の一連の回答を、どう受け止めていますか?  正直、回答なしという結果も想定はしていたんですよ。裁判で繰り広げられた彼の無罪主張には、法治国家における当然の権利とはいえ、苦しめられたこともあったし、あまり期待してまたがっかりするのは嫌だなと。  でも回答を読んで、思いのほか真摯に答えてくれたという印象を受けました。もちろん文章は短いですが、92歳という彼の年齢を考えると、しょうがないかなと思います。報告書には、飯塚氏が、私の言葉について「妥当だと思う」、刑務所での面会や出所後の対談は「受け入れる」と言っていた旨が書いてありました。裁判での利害関係がなくなった今、初めて彼の本心が聞けて、同じ視点に立てたんじゃないかなと思います。 ――今後の飯塚受刑者との対話で、どのようなことを聞きたいですか?  再発防止に向けた僕の思いは分かってもらえたと思うので、今回の『はい』『やめていました』といった回答の先に、話を深めたいです。失敗した人の後悔にこそ、次の失敗の芽を摘むヒントがあるはず。社会制度、医療、交通環境、どんな視点でもいいので、『こうだったら事故を起こさなかった』という反省や悔しさを聞きたいです。世間の人は『言い訳するな』とたたくかもしれないけど、彼の言葉を封殺してしまうと未来の糧にできなくなるので、それはどうかやめてほしい。  飯塚さんの年齢を考えると、一日一日を無駄にせずに、早く面会に行かなければと思います。ただ、真菜と莉子の命日の19日までは精神的にいっぱいいっぱいなので、今は考えるのをやめています。 大きな小麦粉の袋を買ってきて、よくパンを焼いてくれたという真菜さん。「すごく上手で、ちっちゃいパンなんですけど、食パンとかおいしいんですよ」と、松永さん。事故に遭った日、真菜さんと莉子ちゃんは買い物の帰りで、現場には小麦粉が舞っていたという(写真は2018年3月撮影/松永さん提供) 「桜を見ると切なくなります」 ――命日はどのように過ごすのでしょうか?  事故が起きた12時23分に現場に行って、手を合わせます。そしてお墓に行って、沖縄から来てくれる真菜のお父さんとお茶をしながら話をして、という感じですね。  でも僕は、命日を迎えるまでのほうがしんどいです。当日は「来ちゃったものはしょうがない」とある程度割り切れるんですけど、命日の半月前くらいから、「嫌だな」「二人に会いたいな」ってどんどん気持ちが落ち込んでいきます。  桜が咲きはじめると、三人で花見をした時の思い出がよみがえってきます。真菜が焼いてくれたパンでサンドイッチを作って、それを持って公園に行って、食べ終わったら莉子は楽しそうに公園を走り回って。そして桜が散ると、そろそろ命日がやってくるなって考えます。だから桜を見ると切なくなりますね。毎年、これは逃げられない。  でも、無理に前向きにはならないようにしています。最初の1年は、「自分は大丈夫」「二人の命を無駄にしないためにもまだまだやれる」って言い聞かせていたんですよ。そしたら初めての命日、現場で手を合わせたら、事故の瞬間は見ていないのに、真菜と莉子がはねられる様子がフラッシュバックのようにすごくリアルに頭に浮かんでしまって、心が破壊されそうになって、2週間ほど起き上がれなくなったんです。  それで、自分の感情にはウソをついちゃいけないんだと学びました。悲しいときは悲しんで、怒るときはちゃんと怒る。そして命日を迎えたら、受け入れた悲しみや苦しみを力に変えて、自分と同じような人を生み出さないための活動に生かしていこうと思います。 (AERA dot.編集部・大谷百合絵)
池江璃花子が再び“勝負の世界”へ パリ五輪ではメダル厳しい状況も、さらなる成長への期待感
池江璃花子が再び“勝負の世界”へ パリ五輪ではメダル厳しい状況も、さらなる成長への期待感 五輪の内定を手にした池江璃花子 「東京五輪も福岡での世界水泳選手権でも個人種目で派遣標準記録を突破できていなかったので、とにかく今はホッとしていますし、とにかくうれしいです」  3月に行われた競泳のパリ五輪への出場権をかけた一発勝負の舞台、国際大会代表選手選考会での100mバタフライの決勝を戦い終え、五輪の内定を手にした池江璃花子(横浜ゴム/ルネサンス)の表情と声のトーンからは、まさに安堵、という言葉がピッタリだった。  2021年の東京五輪のときは、池江自身も出場は“奇跡”で良いと思っていた。思わぬ挑戦権を獲得し、白血病という病と戦う世界から、アスリートとして勝負の世界に帰ってこられたことを実感するだけで幸せだった。  プールに戻れたことが幸せで、泳げることが楽しい。前向きな気持ちで取り組むトレーニングに加え、池江が持つ水泳センスから日本国内でトップ争いをするまでに時間はかからなかった。  しかし、世界が遠い。  2018年のパンパシフィック水泳選手権では世界のトップスプリンターであるオーストラリアのエマ・マキーオンらを抑え、56秒08の日本新記録で優勝。この記録はいまだ世界の歴代トップ10に入る記録である。その記録に、いくら泳いでも、いくら練習しても届かないのである。  次第にいらだちが隠せなくなっていく。レース後の表情からは笑顔が消え、「まだまだです」「もっと(タイムが)出せるはず」「こんなんじゃ世界と戦えない」と、自分に厳し過ぎるほどのコメントが多くなっていった。  元々、自分に対しては厳しい目を持つ池江ではあったが、東京五輪後の2年は、どこか追い詰め過ぎている様子であった。  トレーニングは確かにこなせている。にも関わらず、記録が出せない。陸上トレーニングをどんなに頑張っても、筋力が戻らない。特に背中と下半身は、いつまでも細いまま。やっていないわけではないにも関わらず、だ。  池江が主戦場とする自由形とバタフライの短距離は、背中と下半身の筋力は欠かせない。2023年の池江を見ても、もちろん2021年時よりは身体つきもしっかりしていたが、まだ世界と戦うには物足りない。  風向きが変わったのは、拠点をオーストラリアに移してからだった。昨年の世界水泳選手権後、白血病を患う前にもトレーニングを行っていたオーストラリアのゴールドコーストを拠点とするトップチームに参加。指導するマイケル・ボールコーチは、池江のライバルでもあるマキーオンを始め、背泳ぎ世界記録保持者のケーリー・マキオンらを指導する名将だ。そこで指導を受けるうちに、徐々に池江本来のアスリートとしての姿を取り戻していく。  きっと、国内にいるとどうしても出てしまうであろう甘えもなくなったことも大きいはず。いつも病気と隣り合わせで、誰かの手を借りてきた池江が、サポートはあるにせよ、自分の手で生活し、トレーニングに励む日々は、選手としての感覚を研ぎ澄ませるのに良い時間になったのだろう。  それは、オーストラリアから帰国し、国際大会代表選手選考会の会場に姿を現したときに十分に感じられた。充実した表情、リラックスした雰囲気。すべてを自分のコントロール下に置けているから持てる自信。そして、なかなかつけることができなかった背中と下半身も、1年前に比べるとひと回り大きくなって帰ってきた。それはこの言葉から見て取れる。 「復帰後ベスト、と言ってきましたけど、オーストラリアに行ってからは、目標は自己ベストの56秒0なんだ、という気持ちに変わった。復帰後ベストはもちろんうれしいですけど、本当の自己ベストを意識したい」  結果的には高校生の新星、平井瑞希(ATSC.YW/日大藤沢高校)に敗れたものの、100mバタフライで五輪2大会ぶりの個人種目での出場権利獲得を果たすことができた。  世界と勝負ができる舞台に立てる、という実感ができたからこそ、少しの焦りも出てきた。大会最終日に行われた女子50m自由形では、1位を獲得するも派遣標準記録を突破できず。「こんなに頑張ってきたのに、結果が出ないのが悔しい」と、100mバタフライの時とは一転して涙が止まらなかった。それも、『勝負の舞台に立っている』から言える言葉であり、感じられる悔しさだった。 「この数カ月でここまで成長できたのだから、パリまでの数カ月間ももっと努力できるし、もっと強くなることができるはず」  オーストラリアで取り組むトレーニングの方向性は池江が目指すものと一致しているし、身体つきの変化からも池江にマッチしていることは証明された。  目標に掲げる自己ベストである56秒08まで力を取り戻すには、前半、後半ともに0秒5前後の上乗せが必要だ。前半のスタートから浮き上がり、後半のラスト15mの失速。この修正しなければならない2カ所は、池江本人もよく分かっているし、名将ボールが見逃すはずはない。  とはいえ、現実的にパリ五輪でのメダルは厳しいだろう。だが、五輪決勝の舞台で“競う”ことで、きっとその先の池江の成長を加速させてくれるはず。  池江は、言った。「自分に負けずに頑張りたい」。その言葉通り、全力でやり抜いた池江のパリ五輪を見届けるのが楽しみだ。(文・田坂友暁)
水原一平容疑者の保釈金380万円「安い上に、1ドルも金を払わず保釈」とアメリカの取材陣もどよめく
水原一平容疑者の保釈金380万円「安い上に、1ドルも金を払わず保釈」とアメリカの取材陣もどよめく 報道陣に囲まれて歩く水原一平容疑者の代理人のマイケル・フリードマン弁護士=2024年4月12日(写真/ロイター/アフロ)   メジャーリーグの大谷翔平選手の銀行口座から1600万ドル(約24億5千万円)超をだまし取ったとして銀行詐欺容疑で訴追された元通訳の水原一平容疑者が4月12日、ロサンゼルス(LA)の連邦裁判所に出廷した。裁判所前で取材した現地在住のジャーナリストが報告する。 * * * 「あ、ミズハラの弁護士のフリードマンが出てきたぞ!」  4月12日、LAのダウンタウンの連邦裁判所の前で報道陣のひとりがそう叫んだ。  100人近い記者とカメラマンたちが、青いスーツ姿の長身の男性、マイケル・フリードマン弁護士を一目散に追いかける。 「今回、捜査は非常に急ピッチで進みましたけど、どう思いますか?」という声を、フリードマン弁護士は無視して歩き去る。  テレビ用の重いカメラを肩にかついで電柱にぶつかりそうになりながらゼーゼーと走るカメラマンや、スマホとメモを振りかざしながら走る記者たち。さらにスチールカメラを抱えて走るフォトグラファーたちが入り乱れて現場はカオスになっていた。 青いスーツを着た後ろ姿のマイケル・フリードマン弁護士。そして彼を追いかける報道陣(撮影/長野美穂)    たまたま通りを歩いていた3人の少年たちが「ちょ、一体何の騒ぎだよ?! これ、異常だろ」と驚愕していた。 「ミズハラは今どこですか?」という声が飛ぶと「彼はもうすぐ保釈される」と一言だけ発し、フリードマン弁護士は交差点の向こうに歩き去っていった。  ロサンゼルス・ドジャースの大谷選手の銀行口座に不正にアクセスし、24億5千万円以上を違法賭博の胴元に送金した銀行詐欺の疑いで訴追された水原容疑者が、裁判所に出廷した直後の出来事だった。 ベルトやネクタイはなし 「あの弁護士、プロボノかな?」 「多分そうだな。今の水原にはあんな高額そうな弁護士を雇う金はないはずだから」 「あの高そうなスーツ見た?」 「確かハーベイ・ワインスタインの弁護団の一人でもあったよね、彼は」  そんな声が報道陣の間で出た。  プロボノとは弁護士が無料または低報酬で、更生を促すなどの公益目的のため、法律事務を提供することを指す。  今回、フリードマン弁護士が、もし仮にプロボノで水原容疑者の刑事弁護を引き受けていたとするならば、メディアの注目が集まる以上、自らの弁護士事務所の宣伝になると計算していてもおかしくはない。 連邦裁判所前で弁護士と水原容疑者が出てくるのを待つ報道陣(撮影/長野美穂)   「スーツと言えば、水原がはいてたズボン、ずり落ちてたよね?」  ネットワーク局ABCニュースのLA支局のイジー記者がそう言うと、周囲のLAの記者たちが「そうそう。そこが一番気になった」と口々に言った。  足かせをはめられて法廷内に姿を見せた水原容疑者。  なぜズボンがずり落ちそうだったのかという疑問に、ベテランの法廷記者はこう語った。 「それは、彼がベルトをしていなかったからだよ。靴ひもやベルトなど、自殺につながる可能性があるものは、当局に身を引き渡した段階で全て取り上げられる。それが決まりだから。だから、ネクタイもなしだった」 「なるほど」という声が周囲から上がると同時に「自殺の可能性」という言葉の重さがズンと響いた。 保釈金のやりとりはない 「ひとつ確認したいんだけど、『unsecured bond』という言葉が法廷で出たけど、この『unsecured』って?」  米大手通信社の犯罪事件担当のステファニー記者が、法廷内で取ったメモを見返しながら、そう言った。 「bond」とは保釈金のことで、今回、裁判所が水原容疑者に課した保釈金の額は2万5千ドル。つまり日本円にすると約380万円だ。 「そもそもこの金額、安すぎない? 1600万を盗んだ容疑だよ」とあるカメラマンが言う。  すると前出のベテラン法廷記者がこう答えた。 「unsecured というのは、簡単に言えば、保釈金を現金で支払う必要がないという意味だ」と言った。 「え?」と周囲がどよめいた。  2万5千ドルの保釈金を裁判所に納めて初めて、水原容疑者はこの建物から歩いて出てくることが可能なのではないのか? 「今回、保釈の条件として裁判官が水原に言い渡した項目を全て守って彼が生活する限り、今日の時点では1ドルも金を払う必要がないよ」  取材メモの整理をしていた記者たちから「そうなのか!」と声が上がった。  裁判所の前では「保釈金2万5千ドルで釈放されます」と地元テレビのアナウンサーが実況していたが、実際に現金のやりとりはないのか?  裁判官は保釈の条件として、大谷選手に接触しないことや、今後、賭博に関わらないこと、ギャンブル依存のカウンセリングを受けることなどを示し、弁護側は受け入れた。条件に違反した際に保釈金を納付する必要があるという報道もある。  ニューヨーク州の元連邦検事補のジョシュア・ナフタリス氏がこの「unsecured」という言葉を法的に説明する。 「unsecured bondというのは、水原の出廷は、現金やその他の資産で保証されるものではない、という意味だ。つまり出廷すると約束して裁判所に実際に姿を現さない場合などには、この保釈金全額を払わなければならない決まり」と言う。  次回の出廷日には必ず出頭するという合意文書に本人がサインし、裁判所側としては署名した人物の「良心」を信じるという形で、保釈するわけだ。  2万5千ドルという金額のさじ加減と「unsecured bond」というやや珍しい、温情とも取れる措置が今回のケースで取られたことに対し、ナフタリス氏は「今回、水原は自分から当局に身柄を引き渡して自首の形を取った。裁判所が保釈金の金額と条件を定める際に、その点を考慮した可能性は高い」と語る。 会見を期待して裁判所の前に設置された報道機関のマイクの束。この日、会見は行われなかった(撮影/長野美穂)   「新しい仕事」も保釈の条件  裁判官が今回提示した数々の「条件」の中には「エンプロイメントを維持すること」という項目も含まれていた。  つまり、何か新しい仕事を探せ、と裁判官から言い渡されたわけだが、家に引きこもっているのではなく働いて、ギャンブル依存症のカウンセリング・プログラムを受ける費用を自分で稼げということなのか。 「裁判に至る前の釈放の条件として、仕事を探すことや仕事をキープすることを求められるのはよくあること」とナフタリス氏。  だとしたら、水原容疑者はこれから一体何の仕事をするのだろう。  他人の銀行口座から不正に巨額の金を盗んだ容疑で罪に問われ、これだけメディアの注目を浴びている人間を雇いたい店や企業が、このLAの街に存在するのだろうか? 「ドアダッシュのデリバリーが手っ取り早いよ。ウーバーの運転手という手もある」とMLBの取材を担当するアメリカ人記者が言う。  ドアダッシュとは、米フードデリバリー会社で、ここ数年、急速に市場シェアを増やしている成長企業だ。  家でスマホを手にして座っていたら、最悪ギャンブルサイトにアクセスしてしまう危険もあるかもしれないから、外で汗を流す肉体労働がいいのでは、というのが記者たちの意見だった。 大谷選手に謝罪したいと声明  水原容疑者とフリードマン弁護士は裁判所に共に出廷したのだが、その後、なぜかフリードマン弁護士だけがひとりでスタスタと歩いてどこかに移動したことは冒頭で説明した。  水原容疑者は一体どこにいるのかがわからないまま、大勢の取材陣が右往左往していると、米チャンネル7テレビのカメラマンが私たちに、 「拘束中の水原容疑者はすでに、当局の車に乗せられて、別の連邦裁判所ビルに保釈手続きのために移動した。ここから5ブロック先のガラス張りのビルだよ」と教えてくれた。  保釈の手続きが行われる別の裁判所ビルに報道陣も移動し、玄関前でカメラとマイクを設置して構えて待つこと数時間。水原容疑者とフリードマン弁護士はなかなか出てこない。 「そもそも大谷は、どれだけ英語を話せるの? 英語を聞いて理解はできてる感じ?」とABCニュースのイジー記者が問う。  するとMLB担当記者は「大谷は英語の質問はかなり理解してる感じだ。ただ、会見は全て水原を通して行われていたから、日本語がわからない我々にとっては、当然、水原の発する言葉が全て」。  かなり冷え込んできた午後4時半ごろ、米大手通信社のステファニー記者のスマホにフリードマン弁護士からメールが届いた。「大谷やドジャースやMLBや自分の家族に謝りたい」という水原容疑者の声明が含まれたプレスリリースだった。 「ふたりはもう裁判所を後にしたって!」とステファニー記者。 「正面玄関じゃなくて、裏口から出たのか」「あの弁護士、メディアの注目を浴びるうまみを知りつくしているから、あえてじらす作戦か」と口々に記者たちは言った。 「水原は、きっと今晩これからドアダッシュのバイトがあるから、早く帰らないと、だろ」と誰かが言うと、みんな一斉にカメラとマイクを撤去しはじめた。「体が冷え切ったね。この角のラーメン屋行く?」と周囲の仲間を誘って三々五々散っていくアメリカ人カメラマンたち。  大谷、水原、そしてラーメン。  LAダウンタウンの金曜日は、こうして暮れていった。 (ジャーナリスト・長野美穂=米ロサンゼルス)
「一緒におうちに帰ろう」 老人ホームから入院を経て自宅で最期を過ごした父との10日間
「一緒におうちに帰ろう」 老人ホームから入院を経て自宅で最期を過ごした父との10日間 父の定位置だったソファ。最後の10日間、ここに座り、大好きな読書をする父の姿があった(撮影/大崎百紀)    介護体験記『いつかまた、ここで暮らせたら』(朝日新聞出版)を出版した翌月、90歳の父が亡くなった。施設で暮らし、入院中だった父を大好きだった家に連れて帰って在宅で看取った10日間の記録を、体験記をつづった大崎百紀がレポートする。AERA 2024年4月15日号より。 *  *  *  実父の在宅看取りを始めて5日目だった。蒸しタオルで父の顔を拭いていると、父がいきなりこう聞いてきた。 「逝っても、いいか」  不意打ちの言葉に泣きそうになったが、冷静に「逝きたいの?」と返す。すると、 「逝きたい。すごく逝きたい」  父が寂しそうにそう答えた。  その4日後の夜、酸素飽和度は60%まで下がった。 「家のことは心配しないで。ママのことも心配しないで」「聞こえてるよね?」  私の声に父はしっかり頷いた。  その後、意識が低下し、確かなコミュニケーションはこれが最後になった。  翌日の朝6時、ほとんど意識のない父に、私はこう伝えた。 「私のことを心配してとどまってくれてありがとう。もう、逝っていいよ。さようなら」  その17時間後、父は逝った。心拍数120以上の頻脈の状態が半日以上も続き、最後の力を振り絞り、90年も動かしてきた心臓を使いきった。指は少しむくんでいたが、手は最後までほかほかしてとても温かかった。 死んだ日と命日が違う  心停止に至るまでの数十分の経過は消える線香花火のようだった。指につけたパルスオキシメーターの数値が70、60、50と下がり続けるのを夫と二人、ただ見ていた。測定不能となり、機器から異常通知音とともに「エラー」表示が出ると、「あ、逝ったんだな」とわかった。こうやって父は逝った。  事前の指示通り、訪問看護事業所の夜間連絡先に「今逝きました」と電話した。「まだ胸が動いている気がする」と夫が隣で言っていたのをよそに私はサクサクと作業を進めた。父が逝ったのは午後11時20分。できれば医師にはその日中に死亡宣告をしてほしかった。父が最後まで頑張った今日という日を命日として記憶したかった。しかし、間に合わなかった。在宅クリニックの夜勤担当医がやってきたのは1時間後。散大した瞳孔を確認した後、「0時20分です」と言い、死亡診断書に記入した。死因は「誤嚥性肺炎」だった。 犬をなでたり、好物のアイスクリームを食べたり。日常の延長で旅立てるのも在宅介護ならではだ(撮影/大崎百紀)    父は昨年12月、入居していた有料老人ホームでコロナに感染していることがわかった。高熱は1週間で落ち着き、日常生活に戻ったが、再び39度の発熱で緊急入院。重症肺炎となり、治療をしても一向に改善せず、医師から「1週間もつかな」と言われた。  病院で見送るのは避けたい。私は父が大好きだった家で、温かく看取ることを決めた。  今回、入院生活から、住み慣れた我が家での「在宅看取り」にスムーズに移行できた要因は、一番に長い付き合いの在宅クリニックの医師の存在が大きい。  通常、高齢者施設で暮らす入居者は、施設が提携する在宅クリニックの医師と契約して往診を受ける。しかし父の場合は、持病(骨髄異形成症候群)で通院していることもあり、施設提携医ではなく、別の在宅クリニックと契約をし、在宅介護時代からの医師の診察を継続させていた。入居していた有料老人ホームでもそれが可能だった。 発信&着信履歴が49件  病院で、医師から余命宣告を受けた日の夜、在宅クリニックの医師に父の状態と私の希望(延命はしない/別れを受け止めている/ただ家で穏やかに送りたい)を伝えると、それを受け止めてくれた。  その翌日。在宅看取りを始める準備を行った。その日だけで発信&着信履歴は49件。私は父が死んだ日よりこの日を忘れられないと思う。  朝一で、父のいる病院に「明日退院します」と電話し、診療情報提供書の準備を依頼。次に介護タクシーの予約。予約時間にあわせて、病院側に退院準備を依頼。退院時間が決まると、在宅医に翌日の訪問診療のアポをとる。そして在宅医療に必要な機械の手配。酸素吸入器は在宅クリニックを通して依頼し、喀痰(かくたん)吸引器は福祉用具としてレンタルした。メーカーから納品希望日を聞かれ、「明日か今日で!」と即答する。  ほかに、介護ベッドや点滴台、ベッドサイドテーブルなど必要な福祉用具も、ずっとお世話になっている福祉用具専門相談員に手配を依頼した。在宅医同様、彼ともずっとつながっていたことが幸いした。ショートメールでもやりとりでき、レスポンスも早い。訪問介護事業所とのアポもとった。父のいるホームへの退去希望の連絡もした。解約手続きと、荷物の引き取り日の調整をするが、すぐにホームには行けない。荷物があるだけで発生する家賃が痛かった。これまでは「いつか戻る」と信じていたホームだが、もう戻れないと悟った途端、日々のコストが急に無駄に感じた。  ホームのケアマネジャーには、施設での介護記録などの情報提供書の準備を依頼し、父の下着やパジャマなどを取りにいくと連絡する。夕方、さっそく実家に介護ベッドが搬入された。組み立てに立ちあったのちに、病室に行き、夜まで父に寄り添った。父に言う。 「明日、一緒におうちに帰ろう」 看護師と介護士が訪問  一般的に、看護師が居宅に訪問するサービスは「介護保険」の給付で受ける。しかし、今回のように看取りを前提にした在宅介護の場合は、在宅医(訪問医)からの特別訪問看護指示書をもとに、医療保険で介護サービスを受けることができる。  そうなると介護保険を使わなくても看取りはできる。私が在宅介護を始めた当初は、必死にケアマネや訪問介護事業所を探したが、看取り期の父には、点滴の管理や喀痰吸引、バイタルのチェックや薬の投与など医療的なケアをしてくれる訪問看護事業所との契約で十分だった。看護師も排泄(はいせつ)介助(おむつ交換)や清拭をしてくれる。  それでも訪問介護事業所と契約した。看護師の1日の訪問回数(2回+急変時1回)に加えて、訪問介護士が1日3回来てくれるように依頼したことで、介護士がいる時間に父の見守りを依頼し、私自身が入浴したり料理をしたりした。わずか10日ではあったが、介護は一人では息が詰まる。人の手は多ければ多いほど良い。人の出入りも多いことで、家がにぎやかになったのも良かったと思う。  退院後、初日は酸素吸入器の酸素量が3リットルだったが、3日を過ぎたあたりから呼吸状態が悪くなり、常に最大の5リットルになった。酸素チューブにコネクターのような器具がついていて、いったんそこで酸素をためてから入れるため、実際に鼻に入るのは10リットルほどの濃度なのだという。酸素吸入のチューブが鼻から外れた状態が1時間ほど続けば死んでしまうと聞き、常にチューブが外れないように見守った。亡くなる2日前からは鼻チューブから酸素マスクに切り替えた。 大好きだったフルーツ  点滴は在宅5日目に中止した。点滴を止めた2日後。父は、りんごといちごとキウイをペースト状にしたものを食べた。父が大好きだったフルーツ。たまたま訪問看護師の一人が、「最後まで口から食べる」ことをめざす、摂食・嚥下(えんげ)障害看護認定看護師だった。「多少のリスクがあっても、食べたいものを食べさせたい」という気持ちが通じる看護師に出会えたことがすごく幸運だった。  最後に自宅で過ごせたことで、身内が訪れやすい環境となり、別れの時間を作ることができた。最初の3日間は父の実の妹が何十年ぶりかに田舎からやってきてくれた。90歳の兄と76歳の妹。父はソファに並んで座れたことが嬉しかったのか、夜中に私が目を覚ますと、一人でベッドから起き上がり、日中に妹と座っていたソファに座ってひとり本を読んでいた。父の定位置だったソファ。ここに座り、大好きな読書をする父の姿を見て、在宅で看取ることができてよかったと思った。  そこからは、日々呼吸苦が増していき、会話が厳しくなっていったが、父は絞り出すように「ガチャガチャ言うな」「あんまり、心配するな」と言った。これが父の最後の言葉となった。そして眠るようになり、意識が低下し、ふわりと逝った。人が死んでいくさまにここまで深く寄り添い、学びを得たのは、今回が初めてだと思う。介護を通して「生きること」を学び、看取りを通して「どう死ぬか」を学んだ。  父は大好きだった「サウンド・オブ・ミュージック」を聴きながら逝き、葬儀では「エデンの東」を流した。今もこの曲をかけると父がそばにいてくれるような気がする。(ライター・大崎百紀) ※AERA 2024年4月15日号
うつ病で電撃引退した「小阪由佳」、15年ぶりに芸能界復帰も「正直凄く怖かった」
うつ病で電撃引退した「小阪由佳」、15年ぶりに芸能界復帰も「正直凄く怖かった」 芸能活動を再開した小阪さん(撮影/高野楓菜)    今から20年前。18歳でデビューし、瞬く間に大人気となったグラビアアイドルがいた。小阪由佳さん(38)だ。2004年に「ミスマガジングランプリ」を受賞し、笑うと三日月の形になる特徴的な目元と癒やし系のキャラクターが話題になり、バラエティー番組に引っ張りだこに。多忙な日々を送っていたが、23歳の時にうつ病を発症して芸能界から姿を消した。体重が20キロ増えるなど紆余曲折を経て15年――。芸能活動を再開した小阪さんを直撃した。 ――昨年11月に芸能界復帰を発表しました。  決断したのは昨年9月ぐらいですね。芸能事務所「cheer  lead」を始めて、あっという間に1年半が経っていました。所属する5人のタレントを売り込むために、各所に挨拶回りや、SNSで発信するなど営業活動をするなかで、周りに「自分がタレントで出ちゃったほうが(宣伝効果として)いいんじゃない?」と言われて。正直凄く怖かったです。すぐに結論は出せませんでした。一度引退しましたし、表舞台に戻ることは考えていなかったので。ただ、「やれることは全部やったほうがいい」とタレントに伝えているのに、自分は使えるものを使っていないという思いがありました。ついてきてくれるタレントのためにも覚悟を決めなきゃと。 視聴者に驚きと幸せを ――具体的にどのような活動をしていきたいと考えていますか。  バラエティーで戦ってきた人間なので、「相席食堂」(朝日放送テレビ)などの番組に出たい思いはあります。でも、簡単に出られるほど甘い世界ではないですし需要があってこそなので、番組、媒体にこだわりはありません。どう立ち振る舞えば喜んでもらえる企画を作れるかなと、今は挑戦心がわいてきています。テレビだけでなくYouTubeでも発信できる時代です。昨年11月にYouTubeチャンネルを開設したので、普段は女の子がなかなか行けない場所に行ったり、視聴者に驚きと幸せを与えたりしたいです。 復帰後はグラビアのオファーもあったという(撮影/高野楓菜)   ――復帰後はグラビアのオファーも来ましたか?  いただきました。ありがたい話なんですけど、書籍やDVD化した時の売れ高を考えると自信がなくて……。「芸能界に復帰して何を言っているんだ」という話ですが(笑)。ネットで簡単に画像が見られる時代になり、私がグラビアをしていた20年前に比べて商品価値が下がっている。私の体に価値がないとかではなく、PV数は稼げても物販で買わせるまでいける気がしない。「きれいなお姉さんブーム」で、私は人妻なのでターゲット層があるとは言われるけど、「ほかも素敵な方がたくさんいるからなあ」と思ってしまいます(笑)。 焦りはありました ――改めて18歳にデビューして5年間の芸能生活はいかがだったですか。  突然始まって、突然終わって。助走なく短距離走で駆け抜けた感じですね。私は下積みと呼べる時代がなく、突然売れたので自分の武器が何もない。仕事のスケジュールがどんどん埋まっていくので、毎日どうしようと悩んでいました。何も取り柄がない自分ができることを必死に考えたら、「笑った顔がかわいい」とおっしゃっていただくことが多かったので、ずっと笑っていようと。シリアスな状況以外は絶対に真顔を見せないと決めていました。裏を返せば、これぐらいしかできることがなかったです。 ――人気絶頂だった時に葛藤を抱えていたんですね。  葛藤がない瞬間はなかったですね。ずっと笑っていることで疲れるとかはないんですよ。仕事は楽しかったですし、必要とされるのはありがたいですから。ただ、笑うことしかできない自分は商品価値として低いので、「このままではまずい」という危機感は常に持っていました。年齢を重ねてグラビアの仕事が長続きするわけではないですし、トークや演技で立ち位置を確立しないと芸能界で需要がなくなっていく。何とかしたいけど、どうしていいかわからない。焦りはありました。 ――23歳の時に電撃引退を決断します。  うつ病になってしまって。今、振り返ると自分を追い込みすぎた部分がありました。仕事で商品や趣味を紹介する時に、自分の感性に合わないものも肯定しなきゃいけない。当たり前のことなのですが、若かったので心のバランスが取れなくて。私は高校時代に化粧をしなかったので当時はメイク道具に関心がなかったのですが、美容の話題になると「かわいい!」と盛り上げて嘘の自分で塗り固めていた。イメージを大事にして人間関係でも素を出さなかったので、孤独でしたね。当時の自分に「もう少し楽に生きたほうがいいよ」と言ってあげたいです。真面目すぎたのかも(笑)。 体が驚いて ――体重が20キロ増えたことも話題になりました。  人間関係で悩んでいる時に、「太ったほうが話題になる」と言われて。当時は精神的に不安定だったので冷静な判断ができませんでした。芸能界で仕事をしている時はほとんどご飯を食べていなかったので、一気に食べると体が驚いて吐いちゃう。不思議な感覚なんですけど、「早くやせさせてくれ」と思いながら食べ続けて3カ月で20キロ太りました。「元の体形に戻らない」と周りに言われましたが、人生を切り替えようと冷静に考えたら不安はなかったですね。人生は自分一人でどうにもできないことが大半ですが、ダイエットは自分一人でできることですから。とはいえ3カ月で10キロ落ちた後は、残りの10キロがなかなか落ちなくて(笑)。運動したり、発酵食品を取り入れたり。食べ物を変えたほうがやせやすいなどいろいろ勉強しました。 自分を追い込みすぎた部分があったという(撮影/高野楓菜)   ――濃厚な人生ですね。当時、印象に強く残ったタレントはいますか。  たくさんいらっしゃいますが、ドラマ「アキハバラ@DEEP」で共演させていただいた星野源さんが印象に残っています。当時はまだ人気に火が付く前だったのですが、演技がうまくて面白いし気遣いもできる。私はうまく演技できなくてボロボロだったんですけど、「大丈夫、大丈夫」って言ってくれたり。心配されすぎると泣けてくるのですが、怒られていると笑ってくれる時もあって。「癒やす力」が絶妙でうまいんです。ご存じの通り歌は凄いし、その後にバーンと売れましたけど、「そりゃ売れるよな」って納得していました(笑)。バラエティーに出演するのは完成された方が多かったけど、ドラマは人気絶頂の方や、これから勢いが出てくる方など混合していますね。 【後編はこちら】 小阪由佳、芸能界引退後に保育園で勤務 「心が壊れた私を子どもたちが救ってくれた」 https://dot.asahi.com/articles/-/219368 小阪由佳(こさか・ゆか)/1985年6月27日生まれ。神奈川県出身。2004年に「ミスマガジン2004」でグランプリを受賞。グラビアアイドルで絶大な人気を誇り、多数のバラエティー番組、CMに出演したほか、映画、ドラマに起用されるなど幅広く活動していたが、心のバランスを崩して09年に電撃引退。その後は保育事業、美容に携わる仕事を経て、芸能事務所「cheer lead」を起業。昨年11月に芸能界に復帰することを自身のYouTubeチャンネルで発表した。 (平尾類)

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