ダイエー時代の03年、右膝前十字じん帯断裂などの重傷でシーズンを棒に振った小久保は、当時の球団社長との確執や米国での治療費2000万円の支払いを拒否されたことなどから、「ホークス以外ならどこでもいい」とトレードを志願。チームの主力では異例の無償トレードという形で巨人に移籍した。

 翌04年、打率.314、41本塁打、96打点と復活を遂げた小久保は、06年に移籍選手では球団史上初の主将に選ばれ、一度は「ジャイアンツに骨をうずめる」覚悟を決めた。

 ところが、同年6月に右手親指内側を剥離骨折し、約2カ月戦線離脱したことが運命を変える。復帰を目指してリハビリ中の7月、「プロ入りから現在に至るまで一番影響を受けた」大恩人である古巣・ソフトバンクの王貞治監督が胃がんの手術で入院した。

「とにかく元気な姿を見たい」の思いが高じた小久保は、日に日に「また王監督と同じユニホームを着て戦いたい」と古巣復帰に気持ちが傾いていった。

「けがをせずに1軍で先頭に立ってジャイアンツを引っ張り、プレーしていたら、この考えは浮かんでこなかったと思います」(自著「一瞬に生きる」 小学館)。

「チームに迷惑をかけてしまい、申し訳ない気持ちのほうが強かった」と最後まで迷った末のFA宣言。王監督は球団という枠組みを超えた特別な存在であり、原辰徳監督も最後には納得して送り出してくれた。

 ソフトバンク復帰後の小久保は「王監督(09年から球団会長)をまた胴上げしたい」の一心でプレーに励み、10年にリーグV。翌11年の日本シリーズでも史上最年長の40歳1カ月でMVPに輝き、8年ぶりの日本一に貢献した。

 11年オフには、大村三郎(サブロー)と鶴岡一成の2人が巨人を出て行った。

 大村は同年6月末、ロッテから移籍してきたが、48試合で打率.243、1本塁打、9打点に終わると、「野球選手は試合に出てナンボだと思う。このまま終わりたくない」と、移籍からわずか154日でFA宣言。古巣・ロッテに復帰した。

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高額年俸からロッテを放出されたが…