球場では誰よりも「魅せる」選手だった清原和博
球場では誰よりも「魅せる」選手だった清原和博

熱狂的な“巨人ファン”が書いた「清原本」が話題を集めている。今夏、『令和の巨人軍』などの著作もある中溝康隆さんが『キヨハラに会いたくて 限りなく透明に近いライオンズブルー』(白夜書房)を出版した。中溝さんは「物心ついた時からの40年近い狂熱的巨人ファン」というライター。なぜ巨人時代の清原ではなく、西武ライオンズ時代の清原について書こうと思ったのか。その真意を聞いた。

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 中溝さんは1979年、ライオンズが福岡市から埼玉県所沢市に本拠地を移した年に埼玉県に生まれた。小学2年生の1986年、ちょうど清原がライオンズに入団した年からプロ野球を見始めたという。

「当時は日本中が巨人ファンという空気でした。でもテレビ埼玉では、西武の試合が最初から見られる。巨人戦の中継が始まる19時くらいまでは西武戦を見る時間、つまり清原さんを見る時間でした」

 当時の小学生の目には30代の選手はすでにおじさんに見えたが、清原はまだ高卒ルーキーの18歳。自分たちとそう年齢の変わらない選手が活躍しているという興奮があった。

「西武黄金時代の4番を張っている清原さんは、ちょっと衝撃的なくらいかっこよかった。西武球場にはファンクラブに入っている少年ファンが多く、みんなで清原さんの応援歌を絶叫していました。まさに“おれたちのヒーロー”という感じでしたね」

 そんな中溝さんも、高校を卒業すると地元・埼玉を出ることになる。大学生になって環境も変わり、いつしか野球よりサッカーに夢中になる日々。清原も八重歯のアイドルから日焼けした番長へと変貌を遂げていた。そして、ついに迎えた清原の引退試合。そこで中溝さんは大きなショックを受ける。

「清原さんの引退試合をニュースで見た会社の同僚の若い女性が、『あれって自己陶酔だよね』と軽く言ったことにものすごいショックを受けたんです。自分の少年時代のスーパースターが、そんなふうに見られているのかと……。この出来事が、西武時代の清原さんをちゃんと記録すべきだと思うきっかけのひとつでした」

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実は激しい「走塁」も魅力だった