西武ライオンズのユニフォームに背番号「3」が映える
西武ライオンズのユニフォームに背番号「3」が映える

「各選手が絶妙なバランスで成立していたのが、西武の黄金時代。清原さんは、ちょうどその空いていたピースにピタっとはまった。周りにはめちゃくちゃすごい選手がいるなかで、清原さんは4番で一塁で、一番年下。本当にやりやすい環境だったと思います。清原さんが西武に入団したことで、観客動員も一気に増えました。もし清原さんが入団していなかったら、その後のパ・リーグの歴史も大きく変わっていたと思います」

 清原入団の1986年、パ・リーグは初めて観客数600万人を突破、西武は球団新記録となる166万人超えを記録した。清原の人気はパ・リーグへの注目度を飛躍させ、それまでマイナーだったパ・リーグのイメージを一新した。

 中溝さんは本書で「清原和博の魅力は、明るくやんちゃな弟気質とアイドル性」「これほど笑顔と涙が似合うプロ野球選手は見たことがない」と記している。清原といえば、ドラフト巨人に指名されずに流した涙、2年目の日本シリーズで巨人を倒す寸前に一塁守備中に流した涙が多くの人々の記憶に残っている。そんな“泣き虫な弟分”を、東尾修、石毛宏典、秋山といった百戦錬磨の選手たちがかわいがった。

「西武の先輩たちも巨人に憧れてドラフトで夢破れたけど、西武に来て真摯に野球に取り組んできたことを知っている。だからこそ、清原の涙の理由もわかり、先輩もウルっときてしまうわけです。選手だけでなく、まさに“国民の弟”という感じで、みんなが心配し、おせっかいをやきたくなるのが西武時代でした。巨人に移籍してからは、松井秀喜さんも年下だったし、入れ違いで落合さんが出て行ってしまい、清原さんより年上で主力を張れる選手はほとんどいなかった。せめて師匠と慕っていた落合さんと一緒にプレーしていれば、あらゆるプレッシャーを軽減できて巨人時代も違っていたと思います」

■弟気質とアイドル性

 清原評では、よく「高卒1年目が一番すごかった」と言われる。その後のプロ生活において、本人には過去の自分との闘いもあっただろう。

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「はかなさ」と「もろさ」がある