写真集『パリ』

 73年12月号の特集は「木村伊兵衛の発見」である。60年のヨーロッパ外遊時のカラー写真と、京都、桂浜、戸隠高原でのモノクロのスナップで構成されている。

 加えて木村作品はフレーミングによる日常性の構造化だと指摘する多木浩二の論考「木村伊兵衛のまなざし」、さらに篠山、荒木、北井、大倉舜二の4人による対談が付された。このうち荒木を除く3人は、73年5月に、木村を団長とする全11人の日中友好撮影家訪中団に参加している。3週間の旅で、彼らは木村の呼吸するようにシャッターを切る自然さに驚いたという。

 なかでも木村と親しく接していたのは北井だった。前年に写真集『三里塚』(のら社)で日本写真協会新人賞を受賞したおり、熱心に推していたのが木村であり、一方の北井もその少し前に木村は風俗描写の写真家にとどまらないと気づいていた。その木村が北井に電話をかけたのは、二人が本誌編集部で顔を合わせはじめたころのようだ。パリのカラー写真を写真集にまとめてくれないか、との打診だった。

 70年に、北井は大崎、橋本照嵩、平地勲、和田久士、岡田明彦らと、各自の写真集や詩集の出版を目的として“のら社”を立ち上げていた。北井の『三里塚』のほか、橋本の『瞽女(ごぜ)』も74年1月に同社から出版されている。木村はこれらを見て、可能性を感じたようだった。

 もちろん木村は、これまでにも写真集を出版しているが、それらは「傑作集」のような形式が多い。一枚の写真の完成度が高すぎたこともあり、パリや50年代からの「秋田」シリーズを一貫したイメージの流れとして組むことが難しいと思われていた。

 結局、のら社はこの困難を引き受けた。約3千カットの原板を見直して320ページに組み直し、74年9月に『木村伊兵衛写真集 パリ』を上梓したのである。その半年ほど前にページレイアウトを見たとき、木村は非常に満足したというが、完成した写真集への賛否は分かれた。それは北井らをいら立たせるのだが、その葛藤を木村は知らない。5月31日、心筋梗塞(こうそく)の発作で没していたからである。

 木村は72年11月下旬に、本誌編集部で初の発作を起こしてから、体調不良が目立つようになった。やがて翌年2月号を最後に15年半も続けてきた「ニューフェース診断室」を降板、連載対談「木村伊兵衛放談室」を休載したこともあった。それでも中国を訪問し、国内での撮影も続けていたが、ついに帰らぬ人となった。

 復刊以来の軸を失った本誌では、74年8月号の「木村伊兵衛の思い出」など追悼特集や企画が組まれ、8月には「臨時増刊 木村伊兵衛の世界」が刊行された。翌75年には追悼展が企画され、さらに7月号では、媒体を問わず活躍した新人を対象とした「木村伊兵衛写真賞」の創設が発表された。同賞の選考委員は伊奈信男、五木寛之、篠山、渡辺、そして同年5月に小島に代わり編集長に着任した岡見璋が務め、副賞は30万円と予告された。

「決闘写真論」

 76年4月号で発表された第1回の受賞者は北井一夫で、対象作品は74~75年の本誌連載「村へ」だった。村々を旅し、出合った一本のあぜ道など素朴な風景を素朴なままに撮り、生活の手触りさえ表現したシリーズである。さらに77年6月号まで続く続編「そして村へ」で対象はより暮らしの細部に寄っている。

 ほかの候補作は佐々木崑「小さい生命」(本誌連載)、中藤まつゑ「極楽浄土」(写真展)、名古屋映像フェスティバル’75実行委員会、平地勲『温泉芸者』(のら社)、馬渕直城のカンボジア内戦の報道である。北井を含め、のら社の二人がいずれも旅で撮られた作品でノミネートされている。

 本誌では、さきの「ディスカバード・ジャパン」以来、旅の意味を問い直す「旅もの」の作品が増え、のら社のメンバーや柳沢信の作品が好評だった。さらに75年から、建築写真を手がけていた山田脩二がその列に加わっている。山田は都市と地方を往還し、人の営みと建物が作り出す景観、つまりランドスケープというジャンルを先駆する作品を発表し始めていた。

 とはいえ、76年にもっとも話題を集めたのは、篠山の写真と中平の写真論による連載「決闘写真論」だった。

 前年、篠山は「アサヒグラフ」で74年5月から半年間担当した、政治からスポーツまでの社会現象について特写した連載を、写真集『晴れた日』(平凡社)にまとめている。一切の文字を入れないその編集には、時代の表層を等価に複写することこそ写真であるという意志が漲(みなぎ)っている。本連載でも、自らの過去と現在とを率直に見つめたさまざまな写真を月替わりに並べ、その主張を貫いた。

 一方の中平は、ウジェーヌ・アジェやウォーカー・エバンスについて繰り返し論じている。じつは、この二人こそ、中平だけでなく当時の写真家がこぞって再評価した写真家だった。その理由は、撮り手の主体や個性の表現以上の強さがあったからだ。中平は次のように言う。

「とりあえず『目前にあるものを見る』ことから出発する。あくまでも眼の前にあるものの、特殊で、断片的で、具体的なものにかかわり、その向こう側へのりこえようとする視線が彼らには備わっている」(76年12月号「篠山紀信論(2)」)

 本来的に、写真には見る人の心情の投影や言語化への企みをもはねつけ、対象を写したまま凍らせる、いわば非人間的な性質がある。二人の写真はその性質を端的に示したが、時代と並走する篠山もまた「眼に見えるすべてを受け入れ」ていた。それゆえ「アジェ、エバンス、篠山、この三人は再び写真に私を引き戻した」(同)と中平は書く。

 中平は、写真家としての長いスランプを抜けつつあった。76年2月号に掲載された、明るい光のもとでシャープに対象を撮ったカラー作品「奄美」はそれを証明している。翌号の「話題の写真をめぐって」でも、このブレ・ボケからの転向は、座談会の参加者に驚きをもって歓迎されている。

 この76年、本誌は創刊からちょうど半世紀を迎えていた。それは、写真史を俯瞰(ふかん)して表現のあり方を再確認し、新たな出発点とするには、最もふさわしい節目であったようだ。