ただ感じるのは、法事、というのでしょうか、葬儀や四十九日などの儀式はとても大切なイベントなのだ、ということです。あのような事々をきちんとしないと、余計に、失った者ときっちり向き合えない気がします。
名目は、弔い、送るということですが、それによって私たちも準備をしていく。死が突然であればあるほど、その後のステップはきちんと踏んでいかなければいけないのだと、つくづく思いましたね。
■後悔しないために普段から死について考えて
生きている母と最後に会ったのは1月末で、次にはもう遺体になっていました。特殊な状況でしたし、あまりにも突然で、いまだにきちんとお別れができてないというか……。
以前から思っているのですが、がんというのは、お別れの準備や身辺整理ができる病気です。自分も家族も覚悟ができる。闘病されている患者さんにとっては嫌な言い方かもしれませんが、私は、そういう意味では良い病気だと思っています。
それに対して突然の別れというのは、準備ができないんです。私自身残された人間として、それがとてもつらかった。
事件や事故で家族や親しい人を亡くした遺族は、受け入れるのに時間が掛かります。その死を乗り越えることが、大きなストレスになってしまう。残された人たちにとっては、亡くなった方を思いながらどう生きていくかが大切だと思うのですが、突然の別れだとその準備が非常に難しいですね。
私、ピンピンコロリっていう言葉、嫌いなんです。それを言うなら、母だってピンピンコロリだったんですから。それに、ピンピンコロリで亡くなったのがどれほど高齢の方でも、ご家族が泣き崩れているシーンはたくさんありますよ。残された方々は、つらい思いをされているわけですよね。
震災後に感じたのは、災害、事故、事件はいつ起きるか分からないので、元気なうちから死について話しておかなければいけない、ということでした。でないと、後でとても後悔する。でも、これはなにも災害や事故を持ち出すまでもなく、普段から考えておくべきことなのかもしれません。