あの日、父(石木幹人医師)が院長を務めていた岩手県立高田病院は津波で被災し、父とともに現地で暮らしていた母は、津波に流された――。
救急や外科手術、がんやホスピスなど死に直面することが避けられない現場で日々診療を行っている医師20人に、医療ジャーナリストの梶葉子がインタビューした『医者の死生観 名医が語る「いのち」の終わり』(朝日新聞出版)。その中から、ここでは東日本大震災で母を失った、東北大学加齢医学研究所の石木愛子医師を紹介する。
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私は元々、緩和医療に興味がありまして。緩和医療というと現在の日本では、それがいいか悪いかは別として、まずがんですし、中でも消化器系のがんが最も多い。それで、消化器内科を希望していました。2011年4月から後期研修に入る予定だったので、本当にその直前のタイミングで東日本大震災が起きたわけです。
当時研修医として勤務していた岩手県立中央病院(盛岡市)から、他の先生方とともに物資を積んで陸前高田へ支援に出ました。先生方は現地の視察と情報収集をし、その日のうちに盛岡に戻られましたが、私は着いて間もなく、ここに残ると決心していました。帰るという選択肢は、なかったですね。
もちろん病院も人が足りずに大変だったのですが、すべてを流され、母も行方不明の中で、やはり父を1人にはしておけないな、と。下着1枚なかったですし、ご飯も炊けず、洗濯もできない人ですから(笑)。
それから約2年間、外来や訪問診療など地域での病院医療を経験しました。
陸前高田は震災前から高齢化率が30%を超え、患者さんは高齢者ばかり。医者も少なく、医療過疎地です。
地域での高齢者医療はどうしても、そこにいる医者の腕にかかってきてしまうと思うんです。高齢者医療は病気の治療だけでなく、痛みのコントロール、栄養、介護の状況など本当に様々な要素があります。医者にそれらの知識と必要な技術があれば、患者さんは良くなるし救われるけれど、なければ、もう年だからと、そのまま亡くなっていくのですよね。