そんなある日の学習での出来事を思い出して、あの奨学金はどこのものだったのだろうかと無性に気になったので、様々な団体の募集要項をダウンロードしてみた。結局は見つからずじまいだったけれど、他の奨学金の申請書を見ても、やはり当時と同じような違和感を覚えることとなった。
だいたいどこの団体の申請書をみても、どのような将来設計を描いているのかを記入する必要がある。奨学生を選ぶ上で、それは仕方ないのかもしれない。しかし、中には自分の生い立ちを書かせるものまであった。もしかしたら思い出すことがないように、心の中にしまい込んでいる事柄かもしれないのに、どうしてそんなことまで書かせなければならないのだろうか。
どれだけ壮絶な生い立ちなのかを赤裸々に告白して、社会や支援者に対して感謝の念を並べて、さらには他者を感心させるような素晴らしい人生設計を明確に示して……。「恵まれない」環境に生まれれば、そうまでしなければ、奨学金をもらうことすらできない社会なんて、私はどうかしていると思う。
「日本国憲法」がどうとか、「子どもの権利条約」どうとか、長ったらしい理屈を用意するまでもなく、子どもが教育を受ける権利は保証されてしかるべきではないのか。
もちろん、どんなことを申請書で問われようと、奨学金が無いよりはあるほうがいいに決まっている。しかし支援を受けるために、生い立ちや人間性が問われるような状況を、少なくとも私は容認したくない。
最近では給付型奨学金が創設されるなど、児童養護施設出身者に限らず、高等教育まで含めて、教育を受ける権利を保障していこうという動きが加速している。それ自体はたいへん望ましいことだ。
しかし、そのような動きに、社会的に支援されるべき人間とされるべきではない人間を切り分けるような論理が伴うとすれば、そのことについては、私は賛同できない。(諏訪原健)