さまざまな思いを抱く人々が行き交う空港や駅。バックパッカーの神様とも呼ばれる、旅行作家・下川裕治氏が、世界の空港や駅を通して見た国と人と時代。下川版、「世界の空港・駅から」。第8回は台湾の台南駅から。
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台湾の台南駅に着く。ホームに降り、改札に向かう。その瞬間、台湾にいることを忘れそうになる。
「ここは、日本のどこかの地方駅……?」
ホームの構造や柱の位置、ホームの幅、線路の色、屋根の高さ……どれをとっても日本なのだ。
台湾の鉄道駅の多くは、日本の植民地時代につくられた。台北駅やその前後駅は地下駅になったり、建て替えられたりしている。台湾新幹線駅やそこに絡む駅も新しい。しかし、それ以外の駅は日本時代の建物を手直ししたり、なかにはそのまま使っているところが多い。
台湾の駅はよく、堂々とした 駅舎の正面が紹介される。 そこから伝わってくるのは、日本という国の力を鼓舞するあの時代のにおいである。日本は台湾という島で、まじめに植民地経営をしていたという人もいるが、植民地支配した事実は曲げることができない。駅舎の外観からは、その時代感覚が伝わってくる。
しかし駅のなかやホームは違う。当時の生活がしみ込み、その風景が日本の駅とシンクロする。
台湾には、日本時代の建物が多く残っているが、その雰囲気は街によって微妙に違う。台北の日本時代の建物は立派だ。総統府、台湾銀行、台大医学校旧館……。やはり台湾の中枢である。山中を走る鉄道、平渓線に沿った建物は炭坑に絡んだものが多い。
東海岸を南に進んだ花蓮に残っているのは、一般の民家や軍の施設、そして寺などだ。農村地帯には、多くの日本人が入植した。神社の跡や、日本家屋がいまも使われている。
台南には、日本の会社の建物が多く残っている気がする。最近、旧林百貨店が、「林百貨」として再開された。1932年に百貨店としてオープンしたが、廃業後は事務所などに使われていた。その建物がリノベーションされた。日本時代の庶民の商業都市という空気が残っている街なのだ。
台北から、北回帰線を越え、台南まで南下してくる。どこか穏やかな気分になるのは、この街から庶民の生活が伝わってくるからではないかと思う。
台湾の人々にとって、植民地時代はつらかった。その後の国民党政権と比べて、まだ日本時代のほうがよかったというのは、単純に比較の問題にすぎない。
しかし台湾には、台湾の人々の生活もあったが、日本の庶民も暮らしていた。宗主国である日本が背後には控えていたが、この土地で必死に生きようとしていた日本人も少なくなかった。その息遣いが残っているのが台南。その象徴が台南駅のホームのように思うのだ。
下川裕治(しもかわ・ゆうじ)
1954年生まれ。アジアや沖縄を中心に著書多数。ネット配信の連載は「クリックディープ旅」(隔週)、「たそがれ色のオデッセイ」(毎週)、「東南アジア全鉄道走破の旅」(隔週)、「タビノート」(毎月)など