いずれにせよ病態が分からない当時、蘭方も漢方も有効な治療手段はなかった。江戸から松本良順、多紀養春院、遠田澄庵など両派の医師が応援に駆けつけるが、7月19日には全身状態が急激に悪化し、大坂城において脚気衝心のため翌20日に亡くなった。享年21。
ビタミンB1の欠乏により生じる脚気は、多発神経炎、浮腫、心不全を三徴とし、おそらく古くからあったと思われるが、疾患としてこれを記載したのはヤコブス・ボンティウスで、1642年オランダ領ジャワ島で現地人の流行病「ベリと呼ばれている手足の知覚および運動麻痺」としている。
日本では、白米が常食されるようになった江戸時代から脚気が広く見られ、「江戸患い」と言われた。維新後も軍隊で多数の患者が発生し、明治13年(1880年)の時点で海軍では総兵員の3分の1が脚気に侵されていたという。英国留学から帰国したばかりの高木兼寛(東京慈恵会医科大学の創立者)は、航海記録から外国の港に停泊中は脚気が発生しないこと、士官に比較して水兵に多いことから兵食を麦飯あるいは洋食に変更し、患者ゼロにしている。陸軍でも、医務局長小池正直は高木の報告を認め、第1軍軍医部長谷口謙ともども麦飯を支給するよう意見書を提出したが、第2軍軍医部長森林太郎(鴎外)と軍医総監石黒忠悳(ただのり)が却下した。その結果20年後の日露戦争では戦死者以上に脚気による戦病死者が多かった。緒方正規、青山胤通、森鴎外や石黒忠悳といった帝国大学主流と陸軍軍医部は疾患には必ず起因菌があるというドイツ伝来の細菌学を重んじた当時のパラダイムから抜け出せなかったのであろう。
話が家茂に戻るが、昭和33年(1958年)増上寺の徳川将軍家墓地改葬の際に家茂の遺骨調査を行った鈴木尚は、遺骨のう歯の程度がひどく、残存する31本の歯のうち30本が侵されていたとしている。彼の治世はペリー来航に続く開国と攘夷の争い、暗殺、2回の長州征伐など極めて多難な時期であった。ストレスを避けるため若い将軍は甘党となり、糖代謝のためにビタミンB1を消費するという悪循環に陥ったのではないか。
当初は政略結婚だった和宮も、将軍の誠実な人格にうたれて明治維新の時には徳川家存続に尽くしている。その和宮も1877年9月2日、夫と同じ脚気衝心のため療養先の箱根塔ノ沢にて死去した。享年32。
【出典】
1 服部敏良『日本医学史研究余話』科学書院、1981
2 松田誠「高木兼寛の脚気の研究と現代ビタミン学(その1)脚気の栄養欠陥説」『東京慈恵会医科大学雑誌』100巻1号、1−13、1985
3 松田誠「高木兼寛の脚気の研究と現代ビタミン学(その2)医学研究と動物実験」『東京慈恵会医科大学雑誌』100巻2号、205−214、1985
4 松田誠「高木兼寛の脚気の研究と現代ビタミン学(その3)医学研究と思想」『東京慈恵会医科大学雑誌』100巻3号、355−366、1985
5 松田誠「高木兼寛の脚気栄養説が国際的に早くから認められた事情 それがビタミン発見の契機になった」『東京慈恵会医科大学雑誌』113巻3号、225−240、1998
6 Carter KC. The germ theory, beriberi, and the deficiency theory of disease. Med Hist. 1977 Apr ; 21(2):119-36.
7 鈴木尚『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』東京大学出版会、1985