歴史上の人物が何の病気で死んだのかについて書かれた書物は多い。しかし、医学的問題が歴史の人物の行動にどのような影響を与えたかについて書かれたものは、そうないだろう。
日本大学医学部・早川智教授の著書『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)はまさに、名だたる戦国武将たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析し、診断した稀有な本である。特別に本書の中から、早川教授が診断した、徳川家茂の症例を紹介したい。
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徳川家茂(1846~1866年)
【診断・考察】脚気
マキアベリは「君主論」で、上に立つものは恐れられると同時に愛されねばならず、どちらか一方となれば恐れられる方が良いとしている。この両立はなかなか難しいが、徳川15代の将軍の中で、最も幕臣に慕われたのは14代家茂だろう。毒舌家の勝海舟もよほど家茂を慕っていたらしく、晩年に家茂のことを語ると「お気の毒の人なりし」と目に涙を浮かべたという。
家茂は弘化3年(1846年)、紀州徳川家11 代藩主・斉順(なりゆき)の長男として江戸紀州藩邸に生まれた。しかし父はその前に逝去しており、顔を見ていない。幼名菊千代、4歳で養父斉彊(なりかつ)の後を継いで紀州藩主となり、元服して慶福(よしとみ)と名乗る。幼少から英明の誉れ高く、13代将軍家定の死後、一橋慶喜と将軍の座を争うが、井伊直弼らの支持で13歳にして征夷大将軍となった。
攘夷派を弾圧した直弼の後を継いだ老中安藤信正は、朝廷と幕府の融合を図る公武合体政策を進め、文久2年(1862年)には孝明天皇の妹・和宮親子内親王(静寛院宮)を正室に迎えた。政略結婚だったが、夫婦の仲は睦まじく側室は持たなかった。
しかし、この結婚は尊攘派の反感を買って安藤は失脚、ライバル慶喜を将軍後見役に、開明派の越前藩主松平春嶽を政事総裁に任命して事態の収拾を図った。さらに家光以来絶えていた将軍上洛を果たし、天皇からも深い信頼を受けるが、第2次長州征伐の最中、慶応2年(1866年)4月より反復する胸痛、6月には咽頭痛と胃痛、両脚の浮腫が生じた。蘭方の奥医師・竹内玄同、伊東寛斎はリウマチと診断したが、京都所司代が要請した漢方医高階典薬頭と福井豊後守は脚気と診断している。