ロス五輪の1年半前から禁酒に踏み切った。
「オリンピックは特別だと言われ続けて、自分もそう思うようになってしまい、ビールはやめようと決めました。一番好きなことをやめて取り組めば絶対に勝てる、と信じていました」
そうして臨んだ1984年のロス五輪では優勝候補に挙げられながらも、14位に沈んだ。
「オリンピックを意識しすぎたんですね。まじめにやりすぎたのがアダとなった」
色紙には、現役当時は「情熱」。引退後は「心で走る」と書くが、
「今になって大事だと感じているのは、平常心。だから、代表選手には特別なことをしてはいけない、普通の大会と同じようにやれば勝てる、と言います」
ロス五輪の翌年、恩師中村清が不慮の事故で亡くなる。そうして五輪後マラソンへの出場に慎重だった瀬古は1年8カ月ぶりにロンドンマラソンに出場、そして優勝を飾る。
このとき、それまでのゴール直前でスパートして相手を置き去りにする戦略を、中盤からスパートする走法に変えた。
「最後に逃げ切るのは中村監督の指示もあったのですが、私は宗兄弟のようにスタミナがないので、途中からスピードアップすると最後まで持たない。でも、中村監督が亡くなったあと、自分らしいところを見せようと走り方を変えました」
中村清という支配からの卒業であった。しかし88年のソウル五輪も9位に終わり、現役を引退した。
エスビー食品陸上部監督に就いたが、平穏な日々からは遠い。90年には交通事故で同部選手ら4人を失う悲劇もあった。同部は12年度で廃部となり、スタッフとともにDeNAに移籍。いまでは現場を離れている。
「監督には向いてない、と思っていました。世の中には優秀な指導者がたくさんいます。そういう人をまとめる役回りの方が私には向いてるんじゃないかな」
(本誌・鮎川哲也)
※週刊朝日 2020年5月22日号より抜粋