今も甲子園ファンの間で語り継がれる特大の一発を放った岡山理大付・森田和也 (c)朝日新聞社
今も甲子園ファンの間で語り継がれる特大の一発を放った岡山理大付・森田和也 (c)朝日新聞社
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 甲子園大会で最長飛距離のホームランは、いつ、誰が打ったのか? 今も“伝説”として語り継がれているのが、1985年夏の準々決勝で、PL学園・清原和博が高知商の豪腕・中山裕章から放った140メートル弾だ。

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 4対2とリードした5回、先頭打者の清原は、カウント2-2から中山の真ん中速球をフルスイング。「僕は打球の方向を見なかった。打った瞬間、入ったと思ったから」の言葉どおり、快音を発した打球は、3メートルの逆風をものともせず、左翼席上段通路のすぐ前の座席を直撃した。

 82年に池田の水野雄仁が早稲田実・荒木大輔から放ったバックスクリーン左への135メートル弾を上回る大会史上最長の140メートル弾。プロの選手でも、過去にこの場所まで飛ばしたのは、阪神時代の田淵幸一とブリーデンぐらい。そんな甲子園でも希少な特大アーチを、前日18歳のバースデーを迎えたばかりの高校生がいとも簡単に打ってしまうのだから、まさに“怪物”だった。

 だが、この日までの清原は、3試合で本塁打ゼロと、けっして好調ではなかった。甲子園出場を決めた直後、腰痛を発症したことに加え、「ホームランを打たなきゃ」とはやる気持ちとは裏腹になかなか勝負してもらえず、焦りからフォームも狂いはじめていた。

 この日も、中山の速球対策から、2打席目まで軽めの910グラムのバットを使っていた。だが、2回に2点を先行される苦しい展開も、3回に4対2と逆転し、一発狙ってもいい状況になると、「よっしゃ、いくで!」と愛用の930グラムのバットに戻し、打ち気満々で3打席目に立った。

「初球は手も出せないほど速かったけど、勝負してくれると思うと、うれしくて、闘志をかき立てられた。(本塁打は)高校生活で一番手ごたえがあった」。

 試合展開、バット、闘志の3つの条件が揃って生まれた文句なしの一発に、打たれた中山も「完敗です」と脱帽。力と力の対決を制した清原は、決勝までの3試合で大会新(当時)の5本塁打を固め打ちし、決勝の宇部商戦で放ったバックスクリーン弾も「150メートル」と報じられたが、こちらは話題づくりのため、下駄を履かせた感がある。

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清原に匹敵する特大弾を放ったのは?