WEリーグの初代チェアとなった岡島喜久子氏(写真提供・日本サッカー協会)
WEリーグの初代チェアとなった岡島喜久子氏(写真提供・日本サッカー協会)
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女子サッカー米国代表モーガンのバービー人形(写真提供・日本サッカー協会)
女子サッカー米国代表モーガンのバービー人形(写真提供・日本サッカー協会)

「いよいよ」と言うべきだろうか。日本で初めての女子プロサッカーリーグ=WEリーグが、来秋、開幕を迎える。初年度参加チーム選定を始め、リーグ立ち上げの総指揮を執るのが、岡島喜久子チェア=代表理事だ。「もちろん、私にとって日本の女子サッカーへの思い入れというのは、大変、強い」と意気込むリーダーの、特異なキャリアを振り返る。今回は前編。

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 WEリーグのかじ取り役を任された岡島チェアが、サッカーの魅力に取り込まれたのは、東京学芸大学附属竹早中学校の校庭だった。

「小学校で一緒にドッジボールをやっていた子たちが、中学生になってサッカーをやっているので『すごく面白そうだな』と。それで、中学2年の時に、男子サッカー部に入れてもらって、一緒に練習だけさせてもらっていました。男子チームに入ると、全然、試合に出られないので、当時、サッカー雑誌で知ったFCジンナンへ、クラブができてしばらく経ったくらいの早い時期に入りました」

 このFCジンナンが、なでしこジャパンの高倉麻子監督も一時プレーし、現在、皇后杯と呼ばれる全日本女子サッカー選手権の初代チャンピオンチームだ。創設から日も浅い当時は「サッカーをしたい女子なら、誰でもウェルカム」という状態だった。当時から、グラウンドの確保は、一苦労だった。

「グラウンドがなかなかとれなくて、ほとんどが河川敷なんですよ。着替える場所もないので、練習が終わって、みんなユニフォームがドロドロになると、3人でバスタオルを3枚掲げて囲んで、その中でひとりずつ着替えて帰るという……。今では『よく、あんなことをしていたな』という風に思いますけれども、その時は、とにかくサッカーをやるのが楽しいという感じでした。

 ポジションは、中学校で始めた頃は、たしか左ウイングで、その後、右かな。ウイングの両方をやって、その後、だんだんポジションが下がってきて、最後はハーフバック、いわゆるボランチをやっていました。一番、長くプレーしたポジションだと思います」

 世田谷の東京学芸大附属高校に進んでからも、高校の男子サッカー部に入ってマネージャーになり、審判資格も取得。男子の練習試合では、審判も務めた。そしてFCジンナンでもプレーを続けたが、長く指導を続けてくれるコーチがいないのが、悩みの種だった。

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かつては自費で国際大会に参加