そして、1981年に日本女子代表がようやく誕生。岡島チェアも、折井監督率いる日本女子代表の一員として、1983年の広州女子国際大会に参加した。翌1984年には、鈴木氏の渡欧に伴い、日本女子サッカー連盟の第2代事務局長に就任。西安招待国際女子大会には、日本女子代表チームの主務として、再び中国を訪れている。

「(中国の大会では)すでに、会社に就職していて、職場に中国語ができる方がいらっしゃったので、2、3週間、現地で必要と思われる言葉、そして日常会話。ホテルの人に必要なものを持ってきてもらったり、食事を持ってきてもらったり。そういう大切そうなところだけを集中的に教えてもらって、少しは喋るようになっていました。

 広州の大会終了後、サッカー雑誌に大会総括を投稿しました。当時の雑誌を送ってもらったのですが、『女子サッカーの将来の姿がこうなればいい』ということを書いていました」

 当時の代表選手によれば「(代表では)通訳のように外国人と完璧にコミュニケーションをとったり、ゴールキーパーがひとりしかいなければセカンドのポジションに入ったりと、チームのためにいろいろなことをやってくれていたのが印象に残っている」とのこと。「誰もいなければ、私がやる」という姿勢は、ここでも発揮されていたのだろう。

 こうして、日本の女子サッカーの黎明期を駆け抜けた岡島チェアだが、ここから、しばらく女子サッカーと距離を置くことになる。仕事が順調に回りはじめ、二足の草鞋(わらじ)に限界が生じたためだった。

■「日本の少女たちにとって、憧れの存在、職業になってほしい」

 視聴率好調のテレビドラマ「半沢直樹」で、金融業界に興味を持った人も多いだろう。早稲田大学を卒業した岡島チェアも、外資系の銀行に入行したが、最大の理由は「土日をサッカーに使いたかったから」。その後、金融の世界で羽ばたき、アメリカに渡った後、ふとしたきっかけで、女子サッカー界に戻っていく。

 早稲田大学を卒業した岡島チェアが、最初に就職したのは、ケミカルバンク(現JPモルガン・チェース銀行)の東京支店だった。

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女性の少ない金融業界での経験は生きる?