今季8年ぶりに日本球界復帰をはたした田中将大(楽天)は、小学生時代に少年軟式野球チーム「昆陽里タイガース」で捕手を務め、坂本勇人(巨人)とバッテリーを組んでいたエピソードがよく知られている。
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中学時代に強肩を買われ、投手も兼ねるようになったが、中3の夏休みに駒大苫小牧高の香田誉士史監督と出会ったことが、大きな転機となった。
ブルペンで投げる田中を見た香田監督は、大きく曲がるスライダーとよく落ちるフォークに目を見張り、同校入学後に捕手をやらせながら、投手として育てることにした。
1年秋に背番号2を貰った田中だったが、テスト登板の機会を与えられた明治神宮大会の羽黒高戦でMAX138キロを計時。6回を10安打7奪三振無四球3失点に抑えたあと、7回から捕手に戻ったが、野球関係者から「あれが捕手か?いい投手だぞ」「何十年に一人の素材だ」と絶賛の声が相次いだ。
当初香田監督は「言い過ぎじゃないか?」と戸惑ったそうだが、けっして、言い過ぎではなかった。
田中は翌春のセンバツ1回戦、戸畑高戦で、不調の上級生の代役として先発のマウンドに上がると、1失点完投勝利。さらに同年夏の甲子園決勝戦では、MAX150キロをマークして優勝投手に。そして、プロ入り後も「何十年に一人」の実績を挙げたのは、ご存じのとおりだ。
強肩が条件となる捕手は、投手としての適性もあるようで、プロ野球界には、田中のように捕手から投手になって成功を収めた者も何人かいる。
西鉄黄金時代の大エースとして通算276勝を記録した稲尾和久もその一人だ。
自著「私の履歴書 神様、仏様、稲尾様」(日本経済新聞社)によれば、中学入学後、自前のグラブを持っていなかった稲尾は、野球をやりたい一心から、野球部の備品としてひとつだけ残っていたキャッチャーミットを借り、自ら志願して捕手になった。
ほかに捕手志望者がいなかったため、すぐにレギュラーになった稲尾は、別府緑丘高でも初めは捕手だったが、1年夏の大会終了後、首藤成男監督が新チームのエースを決めるため、1、2年生全員に投球練習させた結果、「球が一番速い」という理由でエースに指名された。