球は速くてもコントロールに難があった稲尾は、連日の投げ込みや独学で変化球を覚えるうち、高2の秋に南海のスカウトの訪問を受けるまでに成長。その後、西鉄も獲得に動き、最終的に「大阪に行くよりも、何かあればすぐ戻って来られる九州のほうがいい」という父のアドバイスもあって、地元球団の西鉄に入団した。

 最初のキャッチャーミットが後の“神様、仏様、稲尾様”を生み出す第一歩になったわけで、つくづく運命の糸の不思議さを実感させられる。

 稲尾と同じ1956年にプロ入りした米田哲也(阪急-阪神-近鉄)も、もともとは捕手だったが、境高入学後、野球部の真木一夫部長が、いかつい顔で剛球を投げる米田を見て、「お前の顔では投手が怖がる。逆に投手になって、相手を怖がらせるんだ」と指示したことがきっかけで投手に転向した。1年の秋には本格派投手として注目され、高校時代からカーブ、シュート、スライダーも投げ分けていたというから、投手になったのは大正解だった。

“ガソリンタンク”の異名をとったタフネス右腕は、プロ22年間で歴代2位の通算350勝を挙げた。

 05年の阪神の優勝時に、ジェフ・ウィリアムス、藤川球児とともに“JFK”として貢献した久保田智之は、滑川高(現滑川総合高)時代の98年夏に甲子園で、捕手ながら試合後半にリリーフ登板し、野茂英雄ばりのトルネード投法を披露したことから、“滑川の大魔神”と注目を集めた。常磐大進学後、本格的に投手に転向し、最速153キロをマーク。阪神入団後は、07年に歴代最多のシーズン90試合に登板し、07、08年と2年連続で最優秀中継ぎ投手に輝くなど、11年間で通算41勝、47セーブ、117ホールドを記録した。

 ソフトバンク時代の14年に最優秀中継ぎ投手になり、昨年限りで現役を引退した五十嵐亮太も中学時代は一塁手で、シニアの監督は、敬愛学園入学後は捕手にしたかったそうだが、遠投100メートルの強肩に惚れ込んだ古橋富洋監督が投手に抜擢。一歩間違えば、“球界のキムタク”は捕手になっていた可能性もあった。

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元中日のリリーフエースも…