そんなとき、通っていた資格試験の予備校「LEC」で講師に「受験までに論文を200本書いた人で落ちた人は知らない」と言われた。この言葉にすがって、とにかく過去問を起案することにした。軸が細いボールペンでは手が痛くなるので太い万年筆に変えた。

 19年9月、鹿児島市の母が脳梗塞で倒れた。見舞いに行った病院でも面会室で論文を書いた。19年11月4日、母が亡くなった。棺のそばでも勉強を続けた。人でなしである。

 20年、新型コロナウイルスのため試験日が8月に延期になった。真夏に汗だくになり、冷却シートを貼りマウスシールドをして五反田の会場で試験を受けた。帰宅すると体重が1キロ減っていた。何を食べてもおいしくない5日間が過ぎ、やっと試験が終わった。

 19年よりもできたという実感はあった。しかし、推定不合格者として、21年5月のラストチャンス、5回目に向けてフルスロットルで勉強を続けた。司法試験の受験生なら当たり前だがクリスマスも正月もない。

 そして、21年1月20日の合格発表日。半休を取りLECで授業を受けていた。休み時間にスマホで合格発表を見て、自分の受験番号を見つけた。しかし、本当に合格したのかと疑った。

 徒歩30秒の距離にあり、受験番号を届けていた日大法科大学院の事務室に駆け込むと「おめでとうございます」と言われた。刑事訴訟法の先生で、同大学院に派遣されている年下の検察官が感激した面持ちで「ずっと勉強を続けてこられましたね」と称えてくれた。この先生が徹底的に答案を批評してくれたことを思い出し、ぐっときた。

 合格まで9年かかった。こんなに時間がかかるとわかっていたら勉強を始めていなかっただろう。不合格が続くうち、かけた時間とエネルギーを考えて止めるに止められなくなった。いわば「司法試験ジャンキー」である。やっと抜け出すことができた。

 上司、同僚は勉強を快く応援してくれた。さりげない配慮や明示、黙示の応援は本当にありがたかった。

 家族は司法試験のことをほとんど話題にしなかった。妻は「あんたは死ぬまで勉強を続けてろ」とほざいた。「頑張ってね」と言われたり、お守りを渡されたりするよりもこんな励まし方が私には合っている。

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涙のわけは