
福岡 でも人間には、ロゴス化されることでピュシスからの自由を獲得したという側面もあるわけで、ロゴスの檻に入れてある種の詰め込み教育をすることも、どうしても必要になってくるのです。人間がどうやって自分自身を自由にしてきたかという、ロゴスの歴史を学ぶこと自体が教育ですから。
おおた 一度檻に入ってみないことには自由が得られないという、人間にとって宿命的な逆説があるわけですよね。
福岡 そうなんです。ピュシスの掟のままにたゆたうだけでは人間じゃありません。ロゴスの檻に入りつつ、その檻の限界を知ることが、ある段階では必要になります。しかしその檻からあふれ出てしまうものや、あるいはそこに吹き込んでくるものもある。それを感じるという意味で、森のようちえんのような試みがなされることは素晴らしいと思います。特に「センス・オブ・ワンダー(神秘さや不思議さに目を見はる感性)」は、「教える」ことができません。それぞれの少年少女が自分で感得する以外にないわけですね。大人が教えたらそれはロゴスですから。だから、森のようちえんでいちばん大事なのはひとりの時間だと思います。
おおた それは森のようちえんの保育者たちもおっしゃっていました。ひとりでじーっと何かをしている。それこそ大事な時間なんだけど、一般的な保護者は「うちの子、大丈夫ですか!?」って不安になる。
福岡 そこはそっと見守るしかないということなんですね。特に子どもが小さいうちは、教えすぎるのは良くないと思います。質問されたら、「あれ、なんでかな?」と、子どもの側に一度立っていっしょに考えることが大事です。
■大人は教えられないけれど、誘うことはできる
おおた 「センス・オブ・ワンダーは教えられない」というのは非常に重要な指摘だと思います。広い意味での教育には、ロゴス化できないもの、すなわち「教えられないもの」をどうあつかうかという宿命的に逆説的な課題があるのだと思います。それをぜんぶ大人が教えなきゃいけないと思い込んで、無理矢理ロゴス化して、教材や教育プログラムにした瞬間に、こぼれ落ちるものがある。むしろ、森のようちえんの様子を見ていると、「あ、大人が教えられることなんて、これっぽっちじゃん!」ということを実感として受け入れざるを得ない。