
福岡 いや、近い。ピュシスと「じねん」の概念は近いと考えていただいていいと思います。
おおた やはり。ご著書の中に、ピュシスとロゴス(言語や論理)の間を右往左往しながら生きるのが本来の人間の姿だという表現がありました。
福岡 右往左往というのはちょっと自虐的なので、もっとかっこよくいうと、「往還」とか「通態的」ですかね。
おおた そこで私から森のようちえん(野外保育を基本とする幼児教育の総称)の話をしたいと思います。日本の森のようちえんは、ヨーロッパの森のようちえんとは若干ニュアンスが違うかなと感じたんです。西洋では都市と森がはっきりと区別されていますが、日本には里山という概念がありますよね。日本の森のようちえんは、実際には里山が舞台になっているんです。里山こそピュシスとロゴスの間の緩衝帯なんじゃないかと。そうとらえると、日本の森のようちえんはまさに、ピュシスとロゴスの端境でその両方を行ったり来たりしながら行われる教育だといえます。ピュシスとロゴスを対比的にとらえるのは西洋的な価値観のように思うのですが、福岡さんはどうお考えですか?
福岡 西洋的なとらえ方と東洋的なとらえ方にはやっぱり違いがあると思います。初期ギリシャには東洋的な自然観と通底する部分もあったとは思いますが、その後の西洋的な自然観はあらゆるものがロゴス化できるという信念に基づいているといえます。西洋思想のほうが圧倒的に言葉の切れ味が鋭いので、そちらを中心に世界が近代化されていったということですよね。
■学校という空間は「ロゴスの檻」
おおた その西洋的な発想でつくられた学校という空間は、ある意味「ロゴスの檻」みたいにとらえることもできますね。人間の意図の中で教育を行おうと。すると、森のようちえんは、その枠を取っ払って、ピュシスの力を借りながら行う教育だといえます。
福岡 「ロゴスの檻」というのは非常に良い表現ですね。
おおた ありがとうございます。