この働きによって、信長は光秀を坂本城主としただけでなく、そのまわりの志賀郡を所領として与えている。これは、信長家臣の中で、「一国一城の主」第一号であった。信長の能力本位の人材抜擢のおかげで、光秀はとんとん拍子の出世をしていくのである。ちなみに「一国一城の主」第二号は秀吉であった。
「中途入社組」の光秀と秀吉の二人が、宿老とよばれた譜代の柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛らと肩を並べ、やがてそれを追い抜いていくことになる。天正三年(1575)からは光秀が丹たん波ば攻めの総大将、同五年からは秀吉が中国攻めの総大将となっている。
その光秀は、同七年(1579)八月、丹波平定を成し遂げており、翌年、本願寺攻めで捗捗しい戦果をあげなかった佐久間信盛・信栄父子を高野山に追放したときの折檻状(『信長公記』)の中で、「丹波国日向守(光秀)働き、天下の面目をほどこし候」と絶讃している。そのあとに、秀吉、ついで勝家の名前があげられているので、信長の意識の中には、「光秀が一番の働き頭」として映っていたものと思われる。まさに、光秀・信長の蜜月時代であった。
天正九年(1581)二月二十八日に京都御所横で繰り広げられた信長軍団の軍事パレードともいうべき京都御馬揃えで、その総括を任されたのが光秀であった。この時、秀吉は中国攻めの最中だったため、京都に戻れないという事情があったとはいえ、信長が光秀に采配を託したのは、光秀を高く評価していたからである。
このこともあってか、同年六月二日付の「明智光秀家中軍法」(御霊神社所蔵)では、光秀は「瓦礫沈淪」の身だった自分を引き立ててくれた信長に感謝の気持ちを記しているほどであった。
では、そうして、信長の命令を忠実に実行し、信長からの評価を得ていた光秀が、信長から離反していくことになったのはなぜなのか、そして、それはいつからなのか。
信長への叛意を芽生えさせた
天正十年の事件の数々
まず、いつからかという点をみていくと、天正十年(1582)正月七日の坂本城で開かれた茶会のことが津田宗及の『宗及他会記』にみえ、光秀は信長から拝領した八角釜を用い、また、床に信長自筆の書を架けていたことがわかる。光秀が本心を隠し、カムフラージュしていたとすれば別であるが、少なくとも、この時点では、光秀は謀反のことなど考えていなかったのではなかろうか。