では、その信長はどうだったのだろうか。信長の人格、思想、行動をみていく上で注目されるのがイエズス会宣教師ルイス・フロイスの信長評である。フロイスの著わした『日本史』に、「彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった」とあるのに続けて、つぎのようにみえる。
<戦術にきわめて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。>
こうした記述、さらには他の言動からも、信長が尊大で、自意識が過剰だったことがうかがわれるわけであるが、全く性行が異なるにもかかわらず、ある段階までは、光秀と信長の関係はきわめて良好であった。それは、信長流人材登用に光秀がマッチしたからである。そこでつぎに、そのあたりのいきさつをくわしくみていくことにしよう。
比叡山焼き討ちに
積極的だった光秀の真意
義昭と信長に「両属」していた光秀の軍事的力量というか才能に信長がいつ気付いたのだろうか。それは、もしかしたら、元亀元年(1570)四月の信長による越前朝倉攻めの時だったのかもしれない。
このとき、信長の妹お市の方を娶り、信長とは同盟関係にあった北近江の浅井長政が叛旗を翻し、信長は急遽、京に逃げ戻っているが、そのとき、若干の兵を敦賀の金个崎城に殿として残して撤退している。従来、このときの殿は木下藤吉郎秀吉が一手に引き受けたということで、「藤吉郎金个崎の退き口」といわれてきた。ところが、この時、光秀も殿を務めていたのである。
このことから、信長と浅井・朝倉軍との本格的な戦いとなり、志賀の陣とよばれ、近江宇佐山城を守っていた信長の重臣森可成が討ち死にするという事態となった。信長は、その代わりに光秀を宇佐山城主に指名しているのである。
そして、翌元亀二年(1571)九月、信長は浅井・朝倉軍に荷担する比叡山延暦寺を攻めることになる。比叡山焼き討ちである。『天台座主記』といった史料により、信長が「比叡山を攻める」といったとき、必死になって止めようとしたのが光秀だったとされてきたが、その後、発見された光秀の文書から、光秀が積極的に焼き討ちにかかわっていたことが明らかとなった。光秀は真面目であるだけに、また、「ここで手柄をたて、信長様に認められたい」との一心だったのではないかと思われる。命令を忠実に実行し、武将としての力量を認めてもらおうとしたのであろう。