ところが、二月、三月と進むにつれ、少しずつ雲行きがあやしくなる。まず、二月であるが、信長が暦に口出しをしはじめた。本来、年号や暦の決定は天皇大権に属すことがらであった。天皇が土地・人民だけでなく、時をも支配しているという観念である。朝廷の陰陽頭・天文博士の土御門家が制定する宣明暦が全国的な統一された暦として使われていた。これが京暦である。
信長は地方暦で、自分の領国である尾張でも使われている三島暦を使うよう要求しはじめた。天皇大権への口出しであることは明らかで、公家の勧修寺晴豊はその日記『日々記』の中で、「いわれざる事也。これ信長むりなる事と各申事也」と記している。
そして、三月から四月にかけての信長による甲州攻め、すなわち武田勝頼との戦いにおけるいくつかのできごとも注目される。戦いそのものは三月十一日の甲斐の天目山麓田野の戦いで、勝頼が自刃して終わっているが、そのあとの信長の異常な行動を光秀は許せなかったのではないかと思われる。
一つは、武田勝頼の首を首実検したとき、信長が勝頼の首を蹴とばしたということ、二つ目として、武田攻めに同道した現職の太政大臣近衛前久に信長が暴言を吐いたというものである。信長が「富士山をみて帰りたい」といったとき、前久が「私もお供したい」といったのに対し、『甲陽軍鑑』によると、信長は馬上から「近衛、わごれなどは木曾路をのぼらしませ」といい放っているのである。
そして、三つ目として、信長の長男信忠が武田氏の菩提寺の恵林寺で、正親町天皇から国師号を受けている住持の快川紹喜を焼き殺している。長い間、自分を苦しめてきた武田氏をようやく滅亡に追い込んだということで、信長が正気を失いつつあると光秀は冷めた目でみていたのかもしれない。
「もう、信長にはついていけない……」
さらに決定的なできごとが五月におこる。徳川家康を安土城で接待することになったとき、光秀がその饗応役だったのが、突然、解任された一件である。本能寺の変光秀謀反の真相とされる通説の一つ怨恨説でもこの件は理由の一つにカウントされているが、光秀の用意した魚が腐っていたというレベルの問題ではなく、もっと大きな要因が横たわっていた。
饗応役は五月十五日からであるが、その前日十四日付の神戸信孝、すなわち信長の三男が、丹波の国衆に宛てた四国動員令(「人見文書」)は、光秀の領国丹波に、光秀を飛びこして出されたものである。この件について光秀が信長に苦情をいった可能性がある。フロイスのいう「家臣の忠言に従わず」とあるのを思いおこしてほしい。「もう、信長にはついていけない」と考えたのではなかろうか。