写真はイメージです(gettyimages)
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 自らの未来を信長に賭け織田家中に身を投じて以降、世に出た光秀。一方信長も光秀を高く評価し、新参者ながら家中随一の出世頭として取り立てていった――。相思相愛だった二人の関係は、なぜ破綻したのか? 週刊朝日ムック『歴史道 Vol.13』では、大河ドラマ「麒麟がくる」で時代考証を務めた戦国史研究の第一人者・小和田哲男氏が読み解いた。

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 本能寺の変(天正十年、1582)、明智光秀謀反の真相を語るとき、落とすことができないのが、明智光秀と織田信長の性格や考え方の違いである。そこで、まず、光秀と信長、この二人の人格、思想、行動のそれぞれの違いについてみておきたい。

 光秀に関しては残された史料は少ないが、豊臣秀吉との比較で興味深い指摘がなされている。江村専斎の著わした『老人雑話』で、そこに次のような記述がみえる。

<筑前守は信長の手の者の様にて、其上磊落の気質なれば、人に対して辞常にをこれり。明智は外様のやうにて、其上謹厚の人なれば、詞常に慇懃なり。>

 筑前守とは秀吉のことで、「手の者の様にて」とあるように、「秘蔵っ子」といった印象があり、信長からかわいがられ、豪放磊落・傲慢だったという。「をこれり」は「驕れり」であろう。それに対し、光秀は外様だったため、謹厳実直で言葉も慇懃だったとしている。

 秀吉も光秀も織田家臣団の譜代ではない。今でいう「中途入社組」ではあるが、秀吉は信長と同じ尾張出身で、小者から立身出世を遂げたいわば生え抜きであったのに対し、光秀は美濃出身で、牢人したのち越前朝倉義景に仕え、義景のところに転がりこんできた足利義昭を信長に斡旋したことからつながりが生まれ、はじめ、義昭と信長に「両属」という形だったというハンデがあった。

 光秀は織田家臣団の中では、まさに外様で、謹厳実直といった態度を取らざるをえなかったのである。真面目に奉公を続けることで、信長に認められていった。

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積極的だった比叡山焼き討ち