八月六日頃には、信長の側室で光秀の妹「御ツマキ」が亡くなった。光秀は、大いに落胆したといわれている。ただし、この「御ツマキ」については、光秀の実の妹なのか、義妹なのかは不明である。

 十二月四日には、家中法度を定めており、光秀が法による規律を重視したことがうかがえる。同年六月、光秀は法度に違反した土豪を成敗しているので、実際には早くから慣習化していたものを明文化したと考えられる。

 天正九年の光秀は、極めて平穏だったといえる。しかし、翌天正十年には、実に様々な事件が起こるのだ。

信長から受けた不当な仕打ちが
光秀の胸に去来したのか?

 天正十年(1582)一月六日、光秀は安土城を訪れ、信長に年始の挨拶をした。その翌日、茶人の山上宗二と津田宗及を坂本城に招き、茶会を催した。以降、光秀は藤孝・忠興父子、兼見などと面会し、夕食や茶会を共にした。一年の始まりは表向き平穏だった。

 信長による甲斐武田氏攻めは大詰めを迎え、二月九日、光秀は信濃への出陣を信長から命じられた。出発したのは、三月四日のことだ。武田氏が天目山で滅亡したのは、三月十一日のことだった。

 武田氏の滅亡後、光秀は「骨を折ったかいがあった」と述べたところ、かえって信長の不興を買い、折檻されたという。信頼度の落ちる二次史料に書かれたものであるが、光秀が信長から暴力を受けたことはほかにも記録がある。

 四月になると、信長は子の信孝に対して、四国平定の準備をさせた。土佐長宗我部氏の討伐が目的である。信長が四国出兵に命令を下したのは、五月七日のことである。それまで長宗我部氏の取次を担当していたのは、ほかならない光秀だった。しかし、信長は長宗我部氏の「四国切取自由」の許可を撤回し、光秀を取次から更迭した。近年の説によると、この措置により、光秀は将来を悲観したとも言われている。

 五月十五日、光秀は信長にお礼を述べるため安土城を訪れた徳川家康の接待を担当した。饗応は、3日間にわたって催された。

次のページ
信長を討つことに迷いはなかった