『川角太閤記』には、光秀の準備した魚が腐っており、信長が激怒して饗応役から下ろしたという。この直後、光秀は信長から、備中高松城を水攻めにしていた。羽柴秀吉の与力になるよう命じられたのである。

 五月二十七日、光秀は愛宕神社に赴き、二度三度とおみくじを引いたという。有名な「愛宕百韻」を催したのは、翌日の五月二十八日のことである。光秀は、発句として「ときは今 あめが下知る 五月哉」と詠んだ。光秀の発句は、信長を討ち果たし、天下取りの意思を表明したものであると指摘されている。

 このとき光秀の胸に去来したのは、これまでの信長からの不当な仕打ちの数々と、信長に抵抗して落命した諸大名の姿だったに違いない。秀吉の応援に回るということは、その配下に加わることでもあった。疑心暗鬼に陥った光秀は、その頃から信長を討つという気持ちを胸に抱いていたのかもしれない。

 連歌会を終えた光秀は、居城の亀山城に帰城。光秀に信長討伐のスイッチが入ったのは、この頃だろう。六月一日の深夜、光秀は亀山城を出発した。ところが、光秀は備中高松城に向かわず、家臣らに進路変更を告げた。こうして光秀は、本能寺にいる信長の急襲を命令したのである。もはや、光秀には、信長を討つことに迷いはなかったといえよう。

週刊朝日ムック『歴史道 Vol.13』から