※写真はイメージです(gettyimages)
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 織田家に仕官して以来、信長の高い評価を得てモチベーションを保ち、家中筆頭の働きを示していた光秀。しかしその内面では、信長への叛意を密かに募らせていたのか。そのターニングポイントはいつだったのか――。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.13』では「謀叛までの2年」を考察した。

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 天正十年(1582)六月二日、明智光秀は本能寺で主君の織田信長を討った。その前年の天正九年一月以降、いったい光秀は何をして、何を考えていたのだろうか。その足跡に、謀叛につながる萌芽のようなものはあったのだろうか。

 天正九年一月六日、細川藤孝が光秀の居城・坂本城(滋賀県大津市)を訪問した。そこで、執り行われたのが連歌会と茶会である。藤孝は古今伝授を受けており、当代随一の教養人だった。これ以前においても、光秀と藤孝はたびたび互いの邸宅を訪れ、連歌会と茶会を催したことが知られている。

 二人が昵懇だったことは、この年に藤孝が支配していた丹後で検地を行った際、光秀が協力したことからもうかがえる。同年九月四日、光秀は信長から丹後一色氏の旧領分を預け置かれた。つまり、光秀は藤孝の丹後支配をサポートしていたことになろう。

 二月二十八日、光秀は信長の命により、京都馬揃えの準備を担当した。これは正親町天皇の希望によって開催されたもので、当日、壮大なパレードを見た正親町は大いに喜んだと伝わっている。馬揃えの成功によって、光秀の株は大いに上がったと見てよい。なお、一説によると、信長は正親町を威圧するため、あえて馬揃えを挙行したともいわれているが、それは間違いである。

 五~六月にかけては、丹波の土豪から指出(土地の面積・作人・収穫量等を記載し出させること)を提出させた。土豪の土地所有の状況を調べるためである。光秀は土地所有の状況を把握し、軍役負担の割合などを決定したのだろう。こうして光秀は土豪を配下に収め、丹波支配を着々と展開したのである。

 六月二日、光秀は家中軍法を制定。この軍法は前半部分において、戦闘中の軍律を細かく定めており、後半部分では知行高に応じた軍役賦課を規定しているのが特徴だ。

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信長から受けた不当な仕打ち…