(C)田附勝
(C)田附勝

■仕事を手伝いながら学んだ「言語」

 田附さんが最初の『DECOTORA』を撮り始めたのは98年。「デコトラなんて、まだあるんだ、と思って。興味を持った」ことがきっかけだった。

 ブームが去れば、コアな層が残るのはどんな世界でも同じだろう。田附さんはデコトラを熱烈に愛するドライバーたちの集まりを訪れた。

「彼らのイベントには、ときには1000台ものデコトラが集まって、河川敷やスキー場でバーベキューをしたり、年越しを楽しむ。そこに通って、少しずつドライバーたちと仲よくなっていった」

 一方、田附さんは東京郊外を拠点とする、1人のトラックドライバーの仕事を手伝うことで、彼らが話す「言語」を学んだ。

「言語というのは、住んでいる国で変わるだけじゃなくて、職業でも変わる。俺は彼らの言語を知りたかった」

 さらに、彼らがどんなふうに生きているかも知りたかった。

「朝、3時くらいに家を出て、生花を運ぶ仕事を手伝った。そういうことをよくやったね。彼の家族のことも知りたかったから、遊びに行くときは連れていってもらって、いっしょに遊んだりもした」

 デコトラ仲間のイベントに繰り返し顔を出し、彼らとの会話に自然に溶け込めるようになると、次第に人の輪が広がっていった。

「俺は、彼らのホームタウンで撮りたかったから、いろいろな場所を訪ねた。そして、家の前や、彼らが好きな場所で撮影した」

 本州各地をまわり、『DECOTORA』を撮り終えたのは2007年。

「気になっていた人たちや、この業界の有名人はだいたい訪れた。撮りきった、という気持ちがあったね」

 その後、田附さんはデコトラの撮影でできた縁をきっかけに、東北地方を巡り、作品づくりをするようになった。

■当初は気が進まなかった撮影

 そんな田附さんに再び、デコトラを撮影してほしいと、八戸市から依頼があったのは2年前の冬。

「美術館のリニューアルオープンに合わせて、『デコトラの発祥の地』と言われている八戸で写真展をやってほしい、ということだった」

 しかし当初は、あまり乗り気ではなかったという。

「俺的には、デコトラかあ、と。いまやるべき仕事なのかなあ、と思った」

 そう言うと、田附さんは言葉を選ぶように逡巡し、「でも、やらなきゃいけないのかも、と思った」と、口にした。

 そこで話し始めたのは、16年に発表した作品「魚人」のことだった。これも八戸市の依頼によるもので、太平洋に面した小さな漁村に通い、作品をつくった。

「これはもう、終わった撮影なんです。でも、お世話になった漁師の人や、お母さん方がいて、いまでも飯を食いに遊びに行ったりしている。そんなふうに俺は八戸の人とつながっていてね。やっぱり、やらないわけにはいかないな、と」

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コロナ過で考えた彼らの役割