■人間の意思とは無関係の自然
聞くと、齋藤さんは子どものころから、「自然」という言葉に大きな違和感を覚えてきたという。
「小学校で、『自然公園』とかに行くじゃないですか。でも、そのとき、(自然公園って、何なんだろう)って違和感を覚えたんです。だって、その自然って、人がつくったものでしょう。奥多摩の山なんかを訪れても、その森は人によって整備されていることを感じる。調べてみると、日本には人の手の入っていない森なんて、ほとんどない。そんなものを『自然』と呼んでいいのか、ずっと疑問に思っていた」
一方、齋藤さんは、緑に覆われた「ごみの山」の存在をかなり以前から知っていたいう。ただ、長い間、「何かの山」くらいにしか思っていなかった。
ところが、3年ほど前、「インターネットで調べたら、それがごみの山ということを知ったんです。自然ってすごいな、と思った」。
人間の意思とは関係なく、湧き出るように生まれた自然。それはまさに、齋藤さんがイメージしていた自然そのものだった。
「これは撮らなくちゃ、と思った。でも、どう撮ればいいのか、わからなかった」
それでも、「とりあえずカメラを手に山に向かった」のは2019年1月。実際に登ってみると、見かけは小さいものの、なかなか手ごわい山だった。
「埋もれて、よく見えない鉄条網が結構あるんですよ。野バラもたくさんあって、そのとげが刺さる。おまけに斜面が急なうえ、足元がもろいから、靴の上くらいまで土にもぐっちゃう。猫のふんとかもたくさんあって、臭かった」
■「これじゃあ作品にならない」
最初は、1週間ほど山に通い、撮影した。しかし、写した結果を見て落胆した。
「もう、ぜんぜんよくなかったんですよ。木の幹や葉、そういったものが鮮明に写りすぎていた。私が感じていた自然の曖昧さ、その漠然としたイメージが表現できていなかった。これじゃあ駄目だな、作品にならない、と思った」
そこで、カメラをデジタル一眼レフから大きなフィルムを使うピンホールカメラに切り替えることにした。ピンホールというのはレンズ代わりに針先で開けたような小さな穴で、そこから差し込む光で写すことで、ぼんやりとしたイメージが得られる。ところが、「今度は何が写っているのか、分からないような状態になってしまったんです」。