「母親が自宅でピアノを教えていたので、物心がつく前から僕もピアノをやらされていて。とにかく練習が嫌いというか、同じ曲をずっと練習させられるのが、すごい嫌だったんですよね」

 将来ピアニストになる気はさらさらなかった。その頃、将来なりたかったのは、建築家か映画監督。特に映画は、友だちと映画館に行く楽しさもあって、小学生のときから大好きだった。

「結局、作曲家も似たところがあるんですけど、何かを作るのに、自分だけでは完結しない、けれどもその中心に自分がいないとできないような、そういう自己表現の部分を含んだ表現に、漠然としたあこがれがあったんだと思います」

 いつかやめたいと思いながらも、結局毎日続けていたピアノの練習。転機が訪れたのは、小学校6年生の終わりごろ。当時師事していたピアノの先生に、作曲家の道をすすめられたことだった。しかし、作曲家になると言っても、何を勉強するのかわからない。そもそも作曲などしたことがないのだから。盛り上がる大人たちの声に従い、作曲の先生のもとに通うようになった彼が開口一番言われたのは、「つまり、藝高の作曲科を受験するんでしょ?」という言葉だった。かくして、公立の中学に通いながら、音楽関係の高校でも最難関である、東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校を受験するための猛勉強の日々が始まる。

「当時は、漠然と音楽の道に進むしかないんだろうなって思っていて……そもそも“好き”よりも先に“勉強”があったから。中学の頃に音楽に目覚めてギターを始めるみたいな話とは全然違っていて、勉強があって勉強があって勉強がある。“好き”がそこに介入しないんです。だから好きなことは、その中で見つけていくしかなかった」

(文・麦倉正樹)

※記事の続きはAERA 2022年1月31日号でご覧いただけます。

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