●見捨てられた大将
防衛のための城を任されていたものは逃亡し、あっという間に織田軍は甲斐に進軍した。各地からの逃亡と敗走の報告を聞いた将兵たちは、大将の勝頼を見捨て逃走する。唯一、最後まで戦ったのは勝頼の異母弟・仁科盛信が籠城した高遠城で、3月2日に玉砕した。
翌日、勝頼は家臣・小山田信茂の居城である岩殿城に向けて脱出を試みるが、小山田が寝返ったことで勝頼は行き場を失くし、天目山にある武田家由縁のお寺・棲雲寺を目指す。ところが3月11日、追っ手に追いつかれたところで嫡男・信勝、正室ほか全員が自害して果てた。ここで甲斐武田家は滅亡するのである。
●武田家由縁のお寺が繋がる塩山市
織田軍は、勝頼亡き後も残党狩りを続け、武田家が庇護していた寺社の多くを焼き払った。まずは諏訪大社、残党が逃げ込んだ恵林寺を包囲し火をかけた。この時家臣を匿った和尚の有名な言葉「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」の逸話が生まれた。この言葉は再建された恵林寺の山門に今も掲げられている。
武田勝頼は、嫡男に信勝と名付けている。自害する際、元服をすませていなかった息子に鎧を着せ、元服式を行い家督相続をさせた上で自害したと伝わる。「信」の字の入らない自分の代で武田家が滅亡するわけにはいかないとの思いか。この時使用した鎧は、武田家先祖が開基した向嶽寺の境内にある杉下に埋められていたが、江戸時代になり徳川家康により掘り出され菅田天神社に奉納されたという逸話が残る。
●武田家滅亡のすぐ後に本能寺の変が
最終的に武田家滅亡への引き金を引いたのは武田二十四将のひとりでもあった小山田信茂となるのだが、彼はこの後、織田信忠から不忠を責められ処刑されている。そして武田家滅亡から3カ月も経たない6月2日に本能寺の変が起き、甲斐は徳川家康の領地となった。同年7月、徳川家康は勝頼たち一族が自害して果てた場所に景徳院を創建、現在は境内に勝頼・信勝・夫人の墓が建てられている。その後、家康は多くの武田遺臣を匿いやがては重用した。日光東照宮の警備を任されたのは、武田遺臣の流れをくむ一族である。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)