世界が混沌としていて、呑気に神社仏閣巡りなどしているのが申し訳ない気にもなるが、実は神社仏閣が建立されている場所は、過去の歴史、特に戦いの歴史に由来していることが多い。関東にはいくさにまつわる話をもつ寺社もよくある。戦国武将たちは寺社を陣に構えたし、自らの勢力下に寺社をおくために兵を出したりもした。
そんな中で、日本の勢力図を変えるかもしれないほどの力を持ちながら、あっという間に消滅してしまった甲斐武田家を追いながら、有名な寺社をご紹介してみたい。
●歴史的には武田家の系譜は長い
甲斐武田家の祖先は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖・源頼信(河内源氏の祖)につながる。頼信の孫・源義家が源氏の嫡流となり、同孫・義光の曾孫が武田家の初代となる。源頼朝がすでに甲斐守に任官しているので、流れはあったのだろうが、安定的な国として統一できたのは、武田信玄の父・武田信虎の時代だとされる。
信虎は甲斐を統一し、上杉・今川・諏訪など争いの絶えなかった勢力と同盟や和睦を進めたが、結局彼の治世に不満を持った家臣と息子・信玄により、国を追われた。以後、今川義元の元での暮らしと京での奉仕に携わり、信玄よりも長生きした。
●居城跡地には信玄を祀る武田神社が
信虎は、居城として甲府に躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を築く。この城は、信玄、そして次代の勝頼と3代60年ほど本拠地として使われてきた。跡地には武田信玄を祭神にした武田神社が建立され、今に至っている。
武田信玄には父の寵愛を受けたと言われる実弟・武田信繁がいる。信玄が父を追放したのは、信繁の方を後継にするのではないかという疑心もあったためだともされる。信繁は37歳で川中島の合戦の最中没するのだが、信繁の遺した家訓を後世の武士たちが、心得として伝えていたり、学者たちに学の高さを称賛されていたりと、江戸時代に武田武士が高い評価を得た理由のひとつとされている。彼が戦死した場所には、日本一の閻魔さまが鎮座する典厩寺のあることは、以前の稿でご紹介した通りである。