恵林寺の山門の両側に和尚の言葉が掲げられている
恵林寺の山門の両側に和尚の言葉が掲げられている

●最期の武田氏・諏訪勝頼

 武田信玄は、破竹の勢いで版図を拡大していった。有名な上杉謙信との川中島の戦いは、信玄が信濃へと勢力を広げていく中で起きたものだ。駿河・遠江・三河へも侵攻、今川・北条・織田・徳川などとも戦い、まさに全方向への勝利を得ようとした合戦最中に病死した。

 信玄は、信玄暗殺を企てたという謀反の罪で、嫡男・武田義信を廃嫡、甲府五山のひとつ東光寺に幽閉した。お陰で、本来ならば、信玄と顔を合わせることもなかったであろう、四男・勝頼が信玄の跡を継ぐのである。

●因縁が続いた東光寺

 武田家は、初代・武田信義の時代から、当主となるべきものには必ず「信」の文字の入る名がつけられてきた。というより、「信」の入らない名前自体が珍しいのである。勝頼という名をつけられたこと自体が、武田の本家にいるべき人間でないことの表れでもある。

 実際、勝頼の母は、武田信玄によって滅ぼされた諏訪頼重の娘・諏訪御料人であり、誕生から幼年期までの動静については明らかでなく、16歳の時、祖父となる諏訪家の家督を継いでいる。ちなみに、捉えられた諏訪頼重は東光寺で自害したため、東光寺には諏訪頼重と武田義信のお墓がある。のちの時代、織田軍が甲斐攻めを行った際、甲府善光寺に本陣を敷き、東光寺は焼き討ちされた。

●浅間山の噴火が味方の士気に影響

 さて、「信」の入らない武田勝頼は、父の死後も戦勝を続けたが、信玄の死により味方の多くが寝返り、長篠の戦いでの敗戦以降、武田勝頼から勝利の神は離れていく。

 やがて織田信長は正親町(おおぎまち)天皇から甲斐武田を朝敵とする許可を得て、甲斐攻めが始まった。この時、浅間山が噴火したという。信玄には及ばぬ武田勝頼の人望と火山の噴火は、家臣や味方軍に動揺を与えたらしい。浅間山の噴火は天正10(1582)年2月14日、ここからわずかひと月足らずで、甲斐武田家は滅亡するのである。

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