○新政府が出した神仏判然令とは
このような背景の中、江戸時代の中頃から国学が広まるとともに、本来の神道こそが国のあり方であるという意識が高まり、江戸時代の終焉と共に、新しい時代の中枢に神道を据えるべきであるという意見が取り入られることとなった。
神道の神々は天皇の祖先であり、天皇の治世となる明治の世では祭政一致が大事とされ、慶応4/明治元(1868) 年3月 27日(新暦4月19日)に出された神仏判然令により、神社とお寺をはっきりと切り離すように様々な施策がとられるようになる。
○廃仏毀釈は明治政府の出した令ではない
神社に所属していた僧侶は神官になるか還俗すること、神社に仏像を供えてはいけない、お寺のご神体は神社へ渡すこと、神社の唐獅子は取り除くなどといった内容であったが、寺請制度にあった負の部分に恨みを持つ者も多く、やがては廃仏毀釈運動へと繋がっていくのである。「分離しろといったが片方は無くなっても構わない」と曲解した人々が全国で暴れ始めたのだ。
○廃仏運動の中心は普通の人と神官
僧侶たちに冠婚葬祭ごとに金銭を要求されつづけた、という思いを持った一般人や、長く寺院に支配されてきた神社の神主たちの怒りが爆発する形で、多くの寺院が打ち壊され、寺にあった宝が持ち出され売り払われた。この時、多くのお寺が廃寺となり国宝級の仏像でさえ、海外へと流出していった。それでも檀家たちは必死に寺宝を隠し、僧侶たちは隠遁したが、最終的にこの運動が治るのは明治8年頃まで待たねばならなかった。
○全国のお寺の半分が消滅
この間に、全国にあったお寺の半分が無くなったという。被害は大寺院ほど大きく、奈良・興福寺の荒廃はすさまじかった。僧侶の多くが直後に還俗したため、すぐに空寺になったことも大きかったろうが、大神神社の別当であった平等寺、東京の富岡八幡宮の別当・永代寺、伊勢神宮の神宮寺などもこの時に廃寺となった。
また、明治新政府に大きく関与した薩摩藩では、寺院は徹底的に破壊され藩内すべての寺が姿を消したし、水戸藩・長州藩などでは江戸時代末期から寺院破却の兆しがあったという。