太田道灌の家臣たちを弔った七人塚。石仏の頭はすべてない
太田道灌の家臣たちを弔った七人塚。石仏の頭はすべてない
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 お寺で柏手を打つ人を見たりすると違和感を覚えたりするが、よくよく考えてみたらお寺と神社がはっきりと分かれたのは、明治時代以降であり、たかだか150年ちょっとの歴史しかない。それ以前の1000年以上の間、お寺と神社の間にははっきりとした線引きはなく、お寺が神社の管理をしたり、仏像が普通に神社に祀られていたりしたのだ。

○日本の宗教の独特な成り立ち

 これを「神仏習合」と言い、日本に古来続く土着信仰や神道、仏教、道教、儒教など渡来した宗教の一部を取り込みながら、日本オリジナルの融合宗教が出来上がっていった。神社で読経をしたり、占卜のようなものを取り入れた厄や吉方なども神社仏閣問わず広まっていく。

 古代日本にあった先祖供養のような、自然信仰のような、「何か」を畏れ感謝する信仰に、言葉をあてるように神道の神さまが入り、仏教が形を与え、その他哲学めいた理屈や理由が備わっていったのが日本の宗教の形ではないかと思う。

○すべては神さまであり仏さま

 日本は5世紀以来、ずっと神さまと仏さまには区別がなかった。例えば、伊勢の神さまであるアマテラスは名前もあり、ちゃんと存在していたが、アマテラスは観音菩薩や大日如来という別の姿もあって、これらは同一視されていた。これは他の神さまも同様で、みな別の姿(仏姿)も持っているという考え方だった。このような考え方を本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)と呼ぶ。もちろん、一部の神官たちの間では厳格に祭祀を取り扱うものもいたが、これらは主に宮中祭祀に関わる部分に留まっていた。

○人々を拘束した寺請制度

 この考え方は、仏教がすべての上にくるというもので、江戸時代にはお寺を利用した治世も行われるようになる。寺請制度というもので、すべての人々はどこかのお寺に所属(個人の証明を寺にしてもらう)する必要があった。お寺では毎年、自寺の檀家を調査して身元を保証する証文も発行していた。これを貰えなくなると無宿人という、今で言えば無戸籍のような扱いをうける羽目に陥る。

 幕府としては、人々の管理を寺に任せることができたが、一方で制度を笠に着て、人々に無理を強いる心根の悪い坊主などを生む土壌ともなったようだ。

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