さらに2年夏の県大会も、ノーヒットノーラン、完全試合、ノーヒットノーランと3試合続けて快投を演じたが、準決勝の小山戦では、9回まで無安打に抑えながら、延長10回に初安打を許し、0対0の11回にスクイズで無念のサヨナラ負けとなった。
そんな不遇の日々を経て、江川が高校3年間で最大の力を発揮した2年秋がやって来た。
県大会4試合で29回を無失点に抑えた江川は、関東大会でも1回戦で東農大二を6回1安打13奪三振無失点。甲子園出場がかかった準決勝の銚子商戦では、被安打1の20奪三振に切って取り、4対0の快勝。銚子商の各打者は、バットを短く持って食いつこうとしたが、打球は前に飛ばず、バントで揺さぶろうとしても次々にファウルになった。
江川自身も「銚子商戦が私の最高の出来でした。あの一戦だけは落とせなかったものですから。センバツのためにも」と振り返っている。決勝でも横浜を4安打16奪三振で6対0と下し、“横綱相撲”で関東の覇者となった。
そして、翌春のセンバツ、甲子園のマウンドに上がった江川は、全国のファンの前で、そのベールを脱ぐ。
1回戦で北陽を2安打19奪三振完封、準々決勝の今治西戦も1安打20奪三振完封と、噂どおりの怪物ぶりを発揮。準決勝で広島商の機動力野球に敗れたものの、通算60奪三振は今も歴代トップで、まさに江川のためにあったような大会だった。
だが、チームメイトが本塁打を打っても、騒がれるのは江川ばかり。いつしかチームはバラバラになり、打線もつながらなくなった。加えて、センバツ後は、全国から招待試合や練習試合の申し込みが殺到し、基礎練習や投げ込みもほとんどできないほど多忙なスケジュールに追われた。
チームワークも体調も万全にほど遠い状態で、高校最後の夏を迎えた江川だったが、県大会で連日“異次元”の快投を見せる。
初戦の真岡工戦は、21奪三振1四球でノーヒットノーラン。3回戦の氏家戦でも2試合連続ノーヒットノーランを記録も、捕手からの送球を一塁手がベースの前で捕球した結果、振り逃げの走者を許し、惜しくも完全試合を逃している。