高校球界では、2010年代に大谷翔平、佐々木朗希が“夢の160キロ台”を実現したが、50年近く経った今でも“高校野球史上最高の投手”といわれているのが、作新学院時代の江川卓だ。
「高2の秋が一番速かった」といわれ、「150キロ以上」とも推定されている江川の球は、数字には表せない凄みがあった。特に高めにホップしてくる速球は、ほとんどの打者がボールとわかっていても振ってしまう独特の軌道を描き、地方大会では当たり前のようにノーヒットノーランを連発。打者がバットに当てただけで、スタンドからどよめきが起きるなど、木製バットの時代という条件を差し引いても、まさしく“怪物”だった。
江川の“剛球伝説”は、背番号17でベンチ入りした1年夏の栃木県大会から始まっている。
1971年7月18日の2回戦、足尾戦、4回からリリーフした江川は、5イニングを7奪三振のパーフェクトに抑え、8回コールドの参考記録ながら、継投によるノーヒットノーランで公式戦デビューを華々しく飾った。
さらに公式戦初先発となった7月22日の3回戦でも、足利工大付を8回3安打6奪三振の無失点に抑えたあと、翌23日の準々決勝、烏山戦では、2日連投の1年生が、なんと、栃木県大会史上初の完全試合を達成した。
高校時代の江川の凄さを物語るエピソードのひとつとして知られるのが、正捕手・小倉偉民(現亀岡姓。衆議院議員)が故障で休み、控え捕手がマスクをかぶった試合だ。
5回まで無安打に抑えた江川は「6回から本気で投げてもいいか」と声をかけ、第1球を投じた。
ところが、江川の球に慣れていない控え捕手は、高めに伸びてくる球を捕球できず、ボールは球審のマスクを直撃。球審はむち打ちになり、急きょ「座っているだけでいいから」と小倉が駆り出されたという。
だが、そんな「50年に一人」の逸材も、甲子園とはなかなかご縁がなかった。
1年夏は県大会準決勝で宇都宮商に延長11回の末、惜敗。2年秋も不運に泣いた。関東大会1回戦の前橋工戦、江川は1回2死から10連続奪三振と付け入る隙を与えなかったが、1対0とリードした5回の打席で頭部死球を受け、そのまま入院。チームも逆転負けを喫した。