次のカットが白鳥橋上の都電大曲停留所付近の敷石で、前掲の尾張屋橋と類似した形態であることが判別できる。お茶の水橋架け替えが1931年で、同じ神田川に架橋された白鳥橋の震災修復が1930年頃と推察される。尾張屋橋橋上の軌道敷設が両橋と同時期の1930年だったことから、当時の橋上軌道では敷石敷設工法が規格化されていたようにも思われるが、確たる公式資料もなく、諸賢からのご教示を待ちたい。
東海道本線を疾駆する戦前型国電
国鉄東海道本線、同貨物線、相模鉄道本線を跨ぐアンダーガーター構造の尾張屋橋(画面左奥)を相模鉄道本線の西横浜駅ホームから撮影した一コマ。
東海道本線下り線を走るのは、横須賀線の横須賀行き電車。1963年当時、横須賀線を所轄する大船電車区には往年の関西急電の雄と謳われたクモハ43型と出力増強形のクモハ53型の戦前型国電が少数ながら配置され、横須賀線下り列車の先頭に充当されていた。中学時代の筆者は旧型国電ファンでもあり、前部貫通幌に風をはらませて疾駆する43系の姿に魅了されていた。
写真の先頭車はクモハ43024で、次位には「第二次流電」の呼称で知られる広窓仕様の流線形電車モハ52系の中間車サハ48030が連結されていた。当初からコロ軸受けのTR23A型台車を履いており、戦前の雄姿をイメージしながらシャッターを切った記憶がある。ちなみに、3両目の1等車(現グリーン車)からは戦後製造のスカ形と呼ばれる70系電車で、サロ75+モハ70+モハ70+クハ76で6両編成を組成していた。
尾張屋橋から浜松町に向う市電を撮る
このカットは尾張屋橋から浜松町に向けてSカーブ状の取付道路の下り勾配にさしかかる市電を、手前の歩道上から105mmレンズを装填したアサヒペンタックスSVで撮影している。市電の車体が路面の頂点で宙に浮いた一瞬を捉えた作品で、筆者の路面電車撮影技法の一つとなっている「浮かし撮り」の原形が、この時代に醸成されていたことを再認識した。