小学生の筆者は、学友を誘って弁当持参で佃渡船に乗船。件のボックスシートで昼食を摂りながら何往復か船旅を楽しんだ。この時は船頭さんに「お前たち、渡し船は観光船じゃないぞ。いい加減に降りろ!」と叱責された記憶がある。
戦前の月島は深川方からの相生橋が唯一の連絡橋で、永代橋から下流の隅田川には橋がなかった。隅田川畔の石川島には石川島造船所(後年、石川島播磨重工業→現IHI)が所在した。ここで進水・入渠する船舶の通行を橋が支障するために、石川島から下流の架橋は実施されなかった。1940年、隅田川河口に架橋された勝鬨橋が開閉式構造になったのも、石川島造船所に出入りする船舶に対応したものだった。
勝鬨橋が架橋されるまで、往年の隅田川には鬨(かちどき)、月島、佃島の三つの渡し船があり、月島方面への往来に供されていた。前述の勝鬨橋の竣工で、鬨、月島の渡船は役目を終えて廃止された。三つの渡し船のうち一番上流にあって中央区湊町と佃島を結んでいた佃島渡船は、隅田川最後の渡船として最盛期には一日70往復も運行された。石川島播磨重工の造船所移転や月島への道路交通の逼迫により、1961年に佃大橋の架橋工事が開始された。佃島渡船が廃止されたのは、佃大橋が竣工した1964年8月のことだった。
佃島に残る旧き佳き時代の面影
服装から夏を感じさせる次のカットは、佃島渡船場から対岸の明石町方面を撮影した一コマ。昭和39(1964)年8月27日に佃大橋が開通。同時に佃島渡船が廃止される旨を告知した縦看板が掲示されていた。渡船場の屋根越しに完成した佃大橋の橋梁が写っている。
旧景の佃島には戦災を免れた家並や盆栽を飾る路地裏など、旧き佳き時代の面影がここかしこに残っていた。川畔の路上では、漁獲した鯵を原材料にする「くさや」の天日干しが散見されたりして、名物の佃煮店とともに、漁村だった昔日の風情を醸し出していた。