写真家・藤本巧さんの作品展「寡黙な空間 韓国に移住した日本人漁民と花井善吉院長」が12月8日から東京・新宿のニコンプラザ東京 THE GALLERYで開催される。藤本さんに聞いた。
今春、藤本さんは写真集『寡黙な空間 韓国に移住した日本人漁民と花井善吉院長』(工房 草土社)で土門拳賞を受賞した。今回はそれを記念した作品展。
この写真集を手にしたときは驚いた。表紙の写真には日本の象徴ともいえる神社が、その下にはキムチを漬ける特徴的な大壺がいくつも写っていたのだ。反日感情の強い韓国にこんな場所があったとは、信じられない思いがした。
ページをめくると、「岡山村」「広島村」「千葉村」(いずれも韓国に残る通称名)など、日韓併合以降、盛んになった日本人漁民の朝鮮半島への移住の痕跡があらわになる。
藤本さんは韓国だけでなく、彼らを送り出した故郷の漁村も訪ね歩いた。
写真集はそんな韓国と日本の風景が交互に現れるつくりになっているのだが、そこで気になったのが神社の存在だ。
漁の安全を願って建てられた旧日本人村の神社はことごとく取り壊され、土台しか残っていない。
「この作品は見方によっては神社の物語。日本人は韓国に行っても、箱庭のように神社をつくったんです。それは日本の統治時代に、韓国に日本人村をつくった象徴だと思う」と、藤本さんは語る。
表紙に写し出された神社は韓国に残された唯一のものという。韓国南部の小島にあるハンセン病療養施設、国立小鹿島病院(旧小鹿島慈恵医院)の敷地内に建てられたもので、そこを訪れた藤本さんは2代目院長・花井善吉の偉業を知る。写真集はその功績を紹介するページで終わるのだが、そこへ行きつくまでは半世紀にわたる長い道のりがあった。
軍事政権下の韓国にも穏やかで美しい風景があった
藤本さんが初めて韓国を訪れ、撮影を始めたのは1970年。朴正煕政権時代。当時はまだ夜間外出禁止令が敷かれ、日本統治時代を経験した人も大勢いた。
そんななか、藤本さんは民芸運動(※1)に引かれ、30年代に朝鮮半島を旅した柳宗悦(※2)の足跡をたどり、工芸をなりわいとする集落を訪れた。
(※1、2:美術品ではなく、庶民の日用品にこそ美があるとする「民芸」の考えに基づく運動。民芸は「民衆的工芸」の略。工業化や生活様式の西洋化に危機感を抱いた思想家、柳宗悦らが1925年に考え出し、提唱した)
「そこで本当に美しい風景を発見した。なんとも言えない曲線美を持った建物。それが自然と融合して存在していた」
それは何気ない茅葺屋根の農村風景だったのだが、藤本さんは夢中でシャッターを切ったという。
当時の写真雑誌は藤本さんの作品を「詩的すぎる」と、批判した。軍事政権下のもっと緊張感のある世界を撮るべきだ、と。
「けれど、あの時代にも田舎にはおだやかな風景があったんです。私はそちらを写すことを選んだわけです」
風景だけでなく、素朴な人たちの姿もカメラに収めた。
「レンズを向けると、人々は直立不動になって、モデルになってくれました」
しかし、このころから農村を近代化する「セマウル(新しい村)運動」が始まり、藤本さんの愛する自然と同化した風景は次第に姿を消していった。
「ソウルオリンピック(1988年)が終わったあたりから、だんだん撮影テーマを失って、何を撮ったらいいか、わからなくなったんです。家族に『もうこれが最後だと思う』と言って韓国に行ったこともあります」
そんなわけで、国内にも目を向けるようになり、コリアンタウンを訪ね、在日韓国・朝鮮人の祭りや婚礼などを撮影した。そこには古くからの伝統や風習が残っていた。
だが、在日社会も時代とともに変化し、伝統的な風景は急速に消えていった。