今回の訪米で辺野古新基地建設の見直しの確約は取れなかったけれど、「絶対にあきらめない」デニーの姿勢は相手にも伝わった。官邸は軟弱地盤をアピールされ、心中穏やかではない。それにしても、公務で訪ねたとはいえ、米国は父の国だ。

 デニーへの長いインタビューの最後に私はずっと気になっていた質問を投げかけた。

「お母さんがあなたに教えてくれたお父さんのファーストネームは何ですか」。ジョンか、マイクか、ロバートか……名前の向こうに人物像が浮かぶ。

「それは言いません。言えば、俺だ、俺だとたくさん出てきそう(笑)。その気になれば父は捜せるといろんな人に言われますが、生きていたら向こうにも家族がいるでしょう。ご家族のことを思えば声はかけられませんね」

 デニーはやはりデニーだった。相手を包み込むような生き方が自然体なのだ。

 (文中敬称略)
    
■たまき・でにー
1959年 米軍統治下の沖縄県中頭郡与那城村(現・うるま市)に生まれる。米海兵隊員の父は本国に帰還しており、呼び寄せようとするがウチナーンチュの母はデニーを連れて沖縄に留まる。
  70年 米兵の犯罪に沖縄の怒りが爆発。「コザ暴動」で焼かれた米軍車両を母とともに目にする。
  72年 中1で沖縄本土復帰。音楽に目覚め、フォークソングからロックへ。県立前原高校に進み、バンドを結成。音楽ホールなどで演奏する。
  78年 上智社会福祉専門学校・社会福祉主事専門課程に進む。
  81年 専門学校を卒業し、沖縄市の中部地区老人センター運営協議会に勤務。バンドの先輩に請われて、夜はライブハウスで熱唱。
  84年 保育士の智恵子と結婚。インテリア、内装、音響、音楽事務所のマネジャーなど多くの職に就く。
  89年 ラジオパーソナリティーとしてタレント活動開始。式典の司会やイベントプロデュース等、多方面で活躍。
2002年 沖縄市長選への出馬「誤報」の後、同市議選に立候補し、首位当選。「街づくり」政策などに携わる。
  05年 衆院選に沖縄3区から民主党(当時)公認で立つも落選。
  09年 衆院選で初当選。
  12年 野田佳彦内閣(当時)の消費増税法案に国会で反対票を投じ、民主党離党。小沢一郎らと「国民の生活が第一」(のちの自由党)結党。
  14年 衆院選で3期目当選。
  15年 生活の党幹事長兼国会対策委員長を務める。
  17年 「希望の党」ブームに反旗を翻し、衆院選に無所属で立候補。4期目の当選を果たす。
  18年 翁長雄志の急逝による沖縄県知事選に出馬し、過去最多得票で当選。
  19年 「誰一人取り残さない」と宣言し、「万国津梁会議」などを設置。訪米し、上下両院の議員10人と面談。

■山岡淳一郎 
ノンフィクション作家。『田中角栄の資源戦争』(草思社文庫)、『原発と権力』(ちくま新書)、『生きのびるマンション』(岩波新書)。『ゴッドドクター 徳田虎雄』(小学館文庫)が近刊予定。

AERA 2019年12月2日号

※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。

暮らしとモノ班 for promotion
「更年期退職」が社会問題に。快適に過ごすためのフェムテックグッズ