「防衛省の公表資料をもとに沖縄県は試算をしました。軟弱地盤は水面下90メートルまで続いているのに杭の工事実績は70メートルまでしかない。全国民に対して不透明な公共工事です。2月の辺野古沿岸部の埋め立ての是非を問う沖縄県民投票では7割以上の県民が反対の民意を示した。私は日米同盟の大切さは理解しているし、米軍基地を全部なくせとは言っていません。ただ、辺野古の新基地は要らない。政府は工事を止めるべきです」

 デニーは右手首に巻くプラスチック製の輪に左手をそっと当てる。輪には「DEMOCRACY STRIKES BACK」と刻まれている。「民主主義の逆襲」である。早稲田大学で講演をした際にプレゼントされたものだ。と、書くと「闘う知事」のイメージを抱くかもしれないが、ちょっと違う。デニーは政府を批判しつつも一貫して「対話」を掲げ、扉は開け放ち、全国各地を訪ねて米軍基地や日米地位協定が「日本国民、みんなの問題」だと訴える。多くの人を包み込むようにして「民主主義の逆襲」を狙う。

■差別された悔しさを救ったのは育ての母だった

 47都道府県を見渡し、過去に遡(さかのぼ)ってもデニーのような生い立ちの知事はいない。存在自体が「多様さ」の象徴であり、時勢が生んだ首長だ。ことあるごとに「誰一人取り残さない」とデニーは言う。取り残された者の苦悩を知っているからだろう。

 玉城デニーは、1959年10月、中頭郡与那城村西原(現・うるま市)で生まれ、デニスと名づけられた。米海兵隊員の父は、伊江島出身の母がデニーを身籠(みごも)っているときに帰還命令を受けた。帰国後、母子を呼び寄せようと手紙や写真を送ってくるが、母はデニーが2歳になると「アメリカには渡らない」と決め、思い出の品々を焼却した。18歳上の女性にデニーを預け、辺野古のAサインバー(米軍公認の飲食店)に賄い婦として住み込む。月に1度、延々と路線バスを乗り継いで与那城に帰ってきては、デニーに添い寝した。

 そのころ、本土は高度経済成長の光が溢れ、米軍統治下の沖縄では米兵による農婦射殺やひき逃げ殺人、米軍輸送機墜落……と悲惨な事件が続発した。米軍への怒りが本土復帰運動を高揚させる一方、米兵が落とすドルにしがみつかなければ生きていけない現実があった。ウチナーンチュの複雑な情念が日米にルーツを持つ少年に向けられる。

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差別に苦しむ少年時代 支えになったある言葉