高校卒業が迫り、母に「アメリカに行きたい」と打ち明けた。育ての母の長女が結婚して米本土に住んでおり、招いてくれていた。しかし、母は首を横に振る。「だったら大学に行かせてよ」と頼むと、母は黙って目を伏せた。経済的に不可能だった。デニーは働きながら通える福祉専門学校を見つけ、東京に出る。とにかく母から離れたかった。いつも明るく陽気なデニー、その内面ではアイデンティティーの葛藤が続いていた。

 知事となった現在、「子どもの貧困対策」にデニーは並々ならぬ力を注いでいる。

「すべての子どもが、生まれた環境に左右されず、夢と希望をもって育つ。それが健全な社会の基盤でしょう。母子家庭で育った事実が僕を突き動かします。子どもの貧困解消への計画や予算は未来への投資。揺るぎない信念でやっていきたい」

 福祉専門学校を出たデニーは、沖縄市の老人センター運営協議会に臨時職員で入った。夜はコザのライブハウスに出演する。そこで観客だった智恵子と知り合い、親の反対を受け流して結婚した。

 臨時職員の期限を終え、家庭を持ったデニーは、ステージへの未練を断って、インテリア会社に入った。営業でカーテンを売り歩くが、社長と衝突して辞め、内装業に転じる。一人親方で独立したのはいいけれど、不渡り手形を2度もつかまされ、頭を抱え込んだ。真面目に働けば働くほど業界の水が合わず、職を転々。妻は夫を励ました。

「地球46億年の歴史に比べれば、人の一生なんてわずかな点だよ。好きな仕事を思いっきりやればいいさぁ。あなたも自分の道を選べばいいよ」

 人生の節目にはいつも音楽があった。ライブイベントの打ち上げで司会を任され、半ばヤケクソで物まねやウチナーグチを駆使して喋りまくった。たまたま見ていた琉球放送の役員が、「おもしろいねぇ。ラジオに出てみない」と声をかけてきた。

 人の縁とは不思議なものだ。デニーの声が電波に乗ると、たちまち人気沸騰。白人の顔立ちの青年が、生粋のウチナーグチを操り、社会的な話題を当意即妙に語る。生まれ持った多様性、ふたりの母から受け継いだ知性が花開いた。地元の沖縄市や那覇市で結婚式の司会の仕事が次々と舞い込む。家庭では2男2女に恵まれ、水を得た魚のようにタレント活動に奔走した。デニーは天職に就けた、と智恵子は胸をなで下ろす。

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政界への一歩 背中を押したのは「大誤報」